Sweet Heaven Photograph & Words.
1.湖畔

 大きなリュックを背負って山道を登る旅人。4月半ばなのに、アスファルトの照り返しが暑い。
 坂道は右側に曲がり、やがて山肌の向こう側に隠れて、どこまで続いているのか見えない。左側には日の光を反射する湖水が視界一杯に広がっている。地図によると、このあたりには峠の休憩所が何件か並んでいるはずだった。
 彼はガードレールに腰を下ろし、首からかけたタオルで額の汗をぬぐった。そして左手側から後ろを振り返り、すぐ真下の波打ち際から、遠く霞む対岸まで真っ直ぐに伸びる光の帯を追った。
 汗がにじむ目を瞬きすると、今まで見えていたきらめきが、瞼の中から緑色の残像として視神経を刺激する。『久しぶりの開放感だなぁ』吐息交じりに一人微笑む。
「よしっ」両膝を両手でたたいて再び立ち上がる。今まで外気に触れなかった関節の裏側を、立ち上がる勢いの気圧が通り抜ける。と同時に肌と服の生地の間を、とどまっていた汗が一気に流れ出し、一筋の冷たさを与えてくれた。
 一歩一歩、再び歩き出し、道なりに右側へ進み出す。鮮やかな明るい緑の新芽が山肌を覆いつくし時折吹く柔らかい風に揺らめいて、幾重にも重なった一瞬毎の反射が波打っている。その道を規則正しい呼吸とともに登って行く。彼が登る真横を、湖面の反射がついてくる。
 白いセンターラインの曲線が直線に変わって行くあたりから、太陽の見える角度が変わり始め、正面に広がっていた湖が彼の右手に移っていった。そして上り坂はだんだんと緩くなってゆき、その先の少し開けた山裾に、何件かの建物が見えてきた。
 とにかく日の高いうちに宿だけは決めておきたかった。
 今までどのくらいの道のりをきたのかと、後ろを振り向いても、もうそこには一面に広がる真っ青な湖しかない。そして、アスファルトからの照り返しは相変わらず暑く、振り向いた後ろ側には逃げ水が見えている。『まるで夏のようだ』彼は二の腕で頬の汗をぬぐった。
 今朝、早朝の下り電車で東京を出た。普段の出勤より2時間以上早い時間だったにもかかわらず、駅はスーツを着込んだ同輩達であふれていた。それでも下り電車の乗客はまばらで、途中の長距離電車への乗換駅まではゆっくりと座って来ることが出来た。
 もちろん、下り長距離電車では4人がけのボックスシートを一人占めした。ゆっくりと流れて行く田園の風景を楽しもう。朝食代わりにサンドウィッチと、休日の特権、朝から飲む缶ビール。どうせ終点まで乗るのだから・・・。でも目を閉じたところで記憶が消えている。
 昨日の夜まで残業続きだったため、気持ちの緩んだ瞬間、自分の体が正直にその疲れを癒そうとしたのか。それとも、瞼の中を規則的に流れて行く光の点滅と、単調に繰り返されるレールの継ぎ目を車輪が蹴る音が、浅い眠りへの入り口だったのか。彼は列車の揺れが好きだった。特に長距離の各駅停車。
 普段乗りなれている通勤電車ではとてもそのような気分になれないし、出張や休みの帰省で使う新幹線は、眠る暇もなく目的地に到着してしまう。実際、新幹線と普通電車では乗車している時間は同じぐらいでも、体で感じる長さが異なっているようにおもえる。この電車の中での時間はゆっくりと流れているようだ。
 新幹線や飛行機ができる前、通勤電車がまだそれほど込み合っていなかった時代、恐らく日本中の時間がゆっくりと流れていたに違いない。彼自身、子供の頃、一日をあんなに長く感じたのはなぜだろう。たとえば五歳の頃、一年は人生の五分の一を占めているが、二十数年間生きてきたうちの一年は、人生の二十数分の一でしかない。それと同じで、自分が捕らえられる一日や一時間の長さが相対的に短くなってきたのは確かである。でも、彼の感覚が変わったというよりも、世の中が昔に比べてせわしなくなったしまったというほうが正しいだろう。
 せわしない時間に支配される毎日の生活からからはなれて、ほんの一瞬でも、異なる速さで流れる時間の中に身を置けることにささやかな幸せを感じた。その幸せ、この列車の揺れという記憶で彼の深層に眠っているのかもしれない。
 彼の目を覚ましたのは、終点への到着を知らせる車内アナウンスだった。
 その頃には、目の前においておいたビールは生暖かくなり、サンドウィッチを包んでいたラップの包装は、日の光で少ししおれていた。時刻はもう昼近くになっていた。
 駅を出て、山道を湖沿いに何時間か歩き、やっと地図に載っている峠の休憩所の前までたどり着いた。バスならばきっと30分もかからずに来れただろう。
 歩きつづける彼の傍らを何度もバスが追い越していった。しかし今日はそのバスに乗るつもりはなく、とにかく自分の足でここまでこようと決めていた。今までにも、ただ歩きたいという衝動に駆られたことが何度かあった。自分の力で何かをやり遂げたいという気持ちが、何の意味もない行動へと駆り立てる。それは結果としては単なるハイキングかもしれないが、その過程で何かを『満喫』できるのだ。
 道沿いに並ぶ数件の店。山里らしくない、きれいな建物。割と大きな駐車場のある土産屋や、ドライブインのレストラン。平日のためか、駐車場に車は数台しかなく、客もまばらだった。『どこにでもある観光地か』彼はそう思い、今夜の寝床を見つけるため案内所を探した。
 案内所は土産屋の敷地の中にあった。窓口から声をかける。
 「すみません」
 中からの反応はない。誰もいない。小さなボックス、広さは3畳程度、外から一目見て誰もいないことは分かっていた。
 窓から少し斜めに入り込む日の光で、中にかけられたカレンダーが光っている。覗きこむようにもう一度声をかける。
 「すみません!」
 当然反応はない。『出直すか』仕方なく案内所から引き返し、駐車場の中を道路へと抜けて行く。『どこか時間をつぶせるところはないだろうか』あたりを見回すが、ちょうど良い店はない。というよりも、団体客相手のレストランが、『さぁいらっしゃい。でも少々お値段が張りますよ』といわんばかりに聳えていた。普段なら間違いなく喫茶店の一つもあるだろう。観光開発が進み、開けているといっても、幹線道路から古い温泉街への入り口とあっては、然程店があるわけではない。これまでたどってきた山道には休めそうな店はなかった。そうなればもう少し登ってみるしかない。もしもこの先にも適当な店がなければ、このレストランの無駄に高いコーヒーで手を打つしかなかった。
 駐車場からは湖が一望できる。きっと土産屋の2階のレストランからはもっと遠くまで、広く見渡せるだろう。でも、それはお膳立てされた観光スポットであり、本当の景色を楽しみたいものにとっては何か物足りない、都会にいるのとほとんど変わらない作られた景色なのだ。それでも都会と同じような便利さを求めてしまうのはなぜだろう。結局、どこかの商人の術中にはまっているということなのだろうか。
 建物の白い壁に当たる日の光が、先ほどよりも赤味を増してきた。観光街の向こうに見える山肌の緑も、鮮やかさが薄れ、夕闇を迎える準備をしている。

喫茶「SweetHeaven」
マスター:白髪交じりの初老の男性。白いYシャツに黒の蝶ネクタイ、黒のパンツ、黒の     前掛け。小柄で、滑らかな手つきでコーヒーを煎れる。
 広いガラス窓の白い建物。入り口の前には赤いコーヒーの看板が出され、ドアには『Open』の札が下がっている。
 「SweetHeaven。甘い天国。極楽浄土とか言う意味ですか?」
 「さぁ、直訳するとそうなりますか。『SweetHeaven』って、昔、私がヨーロッパの小さな国へ行ったときに食べた菓子の名前なんですよ。そこから拝借しました。」
 「何をお探しですか」
 「安住の地です」
 「見つかりましたか?」
 「いいえ、見つかりません」

2.夕暮れの色

 観光街の道路沿いには、大小何軒かの店が並んでいる。こういったところでは、気の利いた店よりも、どこか派手目の店ばかりが目立つ。大概、カップルでやってくる観光客を当て込んで、店先に若者好みの品々を置き、彼らの目を引こうとしているのだ。『なぜこんなところまで来て、街で流行のキャラクターグッズや、アイドル歌手のTシャツを買おうと思うのだろうか』彼は旅先で出会うこの手の店を見るたびに、そんな土産物にひかれる客の気持ちを不思議に思った。
 店先に並ぶキーホルダーやお守りのような物が、斜陽を浴びて金色に光る。店の奥には退屈そうに新聞を読む主人と思しき男。店の前を通り過ぎようとしていた彼を見つけて「いらっしゃい」と社交辞令の挨拶を配る。彼は店を眺めながらも、その気はないというそぶりで通り過ぎた。主もいつものこと、とばかりに彼の態度を見透かして再び新聞に目を落とす。
 彼の視界に入った、湖に突き出す十メートル足らずの桟橋。そこには貸しボートが数隻係留されていて水面の反射遮っていた。ボートとボートの間には金色の光、それを取り囲むはっきりとした舟形のシルエット。風に水面がゆれる度に、湖面に浮ぶ幾百幾千もの幻想の太陽がきらきらっと輝く。またそれとは違うリズムで、大きくゆっくり、シルエット達も湖面を踊る。
 そんな夕日を浴びながらしばらく行くと、温泉街への曲がり角を示す看板を見つけた。温泉街へ向かう右折待ちのタクシーが、儀式的な赤信号に止まっている。
 『あの駅から来たのだろうか』
 やはり観光地なのだなと思いつつ、そのT字路の角を見回した。そして角の向こう側に大きなガラス窓を見つけた。その時信号が青に変わり、タクシーが右折して行き過ぎる。その後を彼の視線が追った。よく見ると、角を曲がったところにあるドアの前に、鍵のマークが描かれた青と白の看板が出されていた。この手の看板は彼が子供の頃よく見かけたタイプで、最近の喫茶店にはまずないのだが、それは然程使い古された感もない。
 『あるんだな、こんなところには』そう思い、道路を渡って店のほうへ進む。
 白い壁が夕日に照らし出されていて、赤い屋根がなお赤く、緑の背景に映える。大きなガラス窓はよく手入れされているようで、きれいな夕暮れ色に染まっていた。木製のドアに取り付けられた金色のノブには「OPEN」の文字が掛かっている。店に近づくほどの香ばしいコーヒーの香りを感じる。
 ポケットからハンカチを出し、額の汗をぬぐった。
 店の前でその中を見る。客は誰もいないが、まあそんなものだろう。平日の観光地、ホテルや旅館へのチェックイン待ちをする時間でもないし、食事時でもない。こんなところで暇つぶしをするものもいないだろう。『商いが立つのだろうか?』彼は細かいことが気になる性分だった。少し切ない気分でドアを開ける。耳障りではない『カラカラ』という鐘の音が彼を迎え入れた。
 まず感じたのはやはりコーヒーの香りだった。なぜこの香りは落ち着くのだろう。彼がこの香りとともにあるのは、主に仕事中。特に単調なデスクワークや、長引きがちな会議の時だった。その時のコーヒーは何気ない飲み物で、ともすれば苛立ちを連想させるものかもしれない。しかし、休日の朝にファミリーレストランで飲む一杯のコーヒーや、このような小旅行のひとときに味わうこの香りは、いつも安らぎを思い起こさせてくれる。
 香りの中で店内を見渡した。木目を基調とした店内にほとんど調度品はない。店の奥にカウンターがあり、足の高い椅子が5、6脚。大きな一枚板のバーの向こうには、木棚が2段設えてあって、洒落た洋酒が10本ほど並べられていた。テーブル席も窓際にあったが、それほど数はない。全体としてこじんまりとした印象だった。そして大きな窓からはあふれる光。その光に、唯一飾られていた洋酒瓶が魅力的に光る。
 彼は店の中をカウンターへ向かってき、そして一番窓よりの席に腰掛けた。次の瞬間、棚へ向けて視線を投げる。洋酒瓶のラベルは店の入り口側を向き、彼と目が合うことはない。それでも、所々光る部分があってきれいだ。カウンターバーには彼の影が長く続き、頭の部分はその一枚板を越えて、向かい側の白い壁まで伸びている。そしてその半分は店内の扉にも触れていた。
 彼の影の先が少し動いた。「Private」という金色のネームプレートがかけられた扉が開き、壮年の小柄な男性が現れた。白いシャツに黒いパンツ、蝶ネクタイと前掛け。少し白髪の交じった頭髪はこぎれいにそろえてある。清潔感のある人だった。
 ドアの音に気づいたのだろう。冊子を小脇に抱え、カウンターの内側をこちらへ向かってきた。「いらっしゃいませ」そう言うと、主人は彼の前にメニューを差し出し、なれた手つきでメニューを開き、カウンターに置いた。そして彼の目を見て続けた。「お食事ですか?」落ち着いた口調だが、威圧するほどではない。そう言えば今日は朝からサンドウィッチしか口にしていなかった。彼はこの時まで『コーヒーを飲んで時間をつぶす』事しか考えていなかったが、確かに小腹が空いている。何気なくいわれて気がついた。
「そうですね、おやつ程度に何かありますか?」両腕をカウンターに掛け、メニューを眺めながら尋ねる。そして主人がメニューを指差しつつ言った。
「サンドウィッチか、トースト。あと、ケーキセットとパイセットがございます」
「サンドウィッチは昼に食べたし、そうだなぁ・・・」
 彼は喫茶店のメニューにはちょうど良い食べ物が少ないと常々思っていた。サンドウィッチやトーストなどは食べたくはなくても、何かつまみたい時、クラッカーやナッツなどがあればそれなりに事足りるということもある。男一人でケーキセットというのもどことなく情けない。ケーキを食べないこともないが、喫茶店で食べるとなると気が引ける。しかし、パイセットは珍しい。ファーストフード店のアップルパイなどは抵抗なく食べられる『ちょうど良い』メニューだが、今までに喫茶店でお目にかかったことはない。
 「パイセットって、どういう感じのものですか?」彼は主人の顔を見て尋ねた。主人の顔は彫りが深く、きっと昔はいい男だったのだろうと思われた。主人は軽い笑みを浮かべて答えた。
「ヨーロッパ風のパイとお飲み物のセットです。お飲み物はブレンドかアメリカン、レモンティーかミルクティーからお選びください」
 『まぁいいか』彼が聞きたかったのはそのパイの正体だったのだが、この雰囲気の店でとんでもないものは出てこないだろうと踏んだ。
「そうしたら、パイセットをブレンドでください」
「畏まりました」そういうと主人は伝票を書いてからカウンターを戻り、先ほど出てきたドアを開いた。ドアが開くと同時に、斜陽に描き出された彼の影がドアの向こうの部屋まで伸びて行く。ドアは内開きになっていて、主人が目一杯開くと、少し戻ったあたりのストッパーで止まった。その奥には調理場らしい場所があって、ステンレスのテーブルが置かれているのが見える。
 主人はいったん見えないところまで行ったが、すぐに戻ってきた。今度は氷水を注いだコップと銀色の水差しをプレートに乗せて運んできた。奥の部屋の蛍光燈に照らし出されたコップは、薄い水色をしていて、いかにも涼しそうに見える。主人がこちらへ近づいてくると、まずは背の高い水差しに、そしてコップやその中にある氷へと窓からの光が差し込んだ。水差しに当たった光は鈍い金色に、コップや氷に当たった光の一部は同じように透明な反射光になった。また、コップに射し込んだ光の残りは、主人の歩みにあわせてコップの中をきらきらと行き来した後、その白いシャツに水色の影を落として消えていった。
 主人は水差しと合わせて誂えたような銀色のコースターを置き、そして静かにコップをその上に置いた。そして水差しをプレートから出しつつ言った。
「ずっと歩いてこられたのですか?」
「えっ、ええ、駅から、分かりますか?」
「汗をかいていらっしゃいますから。暑い日に大変でしたね。どうぞ、とりあえずお水でもお飲みください。」
 水差しを置いた後、主人はカウンターの下にゆっくりとかがみ込んで、何かを取り出した。それは袋入りのペーパーナプキンだった。
「まだ冷やしたタオルは入れていないのですが、こちらで良しければお使いください」それを彼に差し出した。
「冷房、入れましょうか?」主人が天井にあるエアコンを指差した。
「いえ、だいぶ落ち着きましたから結構です」暑いようだったら声をかけてくださいといって主人は調理場へ戻った。
 彼はビニール袋からナプキンを出してまず手を拭いた。そして額、頬をぬぐい、元畳んであったクセに合わせて、再び折りたたんでカウンターに置いた。
「ふうっ」ため息を吐いて、コップの水を口に含んだ。『・・・?』氷水がかすかに香る。そしてもう一口飲み、柑橘系の香りがするするのを確かめた。その香りのためか多少苦いが爽やかな喉越しが快い。『こういうのをサービスというのかな』彼はそう思ってコップの水を一気に流し込む。もう一度ため息が出た。コースターにコップを置いて、水差しから新たに注ぎいれる。「コロンッ」コップの中の氷が溶けて風鈴の音がしたように感じた。彼の中を、一瞬の夏が通り過ぎていった。
 ジーパンのポケットから、しわになりかけたたばこの箱を出して、一本取り出す。左手の届くあたりに灰皿があった。銀色をした金属製のもので、水差しやコースターと揃いのデザインのようだ。
 胸ポケットから取り出したライターでたばこの先に火を付けて、一服燻らせる。肩の力を抜いて頬杖を突く。宿探しが面倒になってきた。
 夕暮れの色が、上へ上へと昇る紫煙を抜けて光の筋が描く。そんな光と、その向こうに霞んで見える酒瓶のきらめきで、喫茶店いにいるのではないかのような錯覚を覚えた。

3.流れてそして消えて行く

 奥の扉の向こう側から時折、物音が聞こえる。それ以外はほとんど無音の状態が続く。それでも彼の感覚は場の空気を強く感じていた。店内を満たしたコーヒーの香りと、湖の向こう側の更に遠くから差し込む黄金色の光。そしてその中を漂う煙草の煙。
 何もしないで、まるで時間が止まっているように思われる時ほど『時間』の存在を強く感じる時はない。棚に飾られたきらきら光る洋酒の瓶を見ながら、彼は何を考えるわけでもなくただただ、あふれて、そして流れて行く時間を感じていた。
 考えているわけでもないのに、昔のこと、今のこと、いろいろなことを思い出してしまう。思い出すという『現象』は、意識して考える『行為』と、同一の器官で行っていることとは言え、かなり違うものだと思う。でも、思い出から浮かぶ未来への想像は、思い出すという現象と同じ感覚を持ちながら、考えるという行為の延長なのかもしれない。
 一日の内で一番美しい一瞬を、いい雰囲気の店で過ごしているにもかかわらず、突然どうしようもなく切ない衝動を覚えた。何もしないで良いという幸せの隣には、普段思い出さなくても良いことまで思い出してしまうという不幸も座っている。
 何もしないで黄金色の光を浴びている事、それ自体はとても開放的で自由で幸せなことである。しかし、意識的思考を停止したとたん、何処からともなく、これまで重ねてきた記憶が蘇ってくる。それは呼び出してもいないのに、何かの拍子に閉じた脳細胞のネットワークが、勝手に意識の表層へ送り出してくる。まるでコマーシャルのように、インパクトの強い部分だけを半ば強制的に見せ付ける。
 思い出してはいけないという『行為』と、忘れられないという『現象』のせめぎあいの中で、結果として『現象』が『行為』を打ち負かしてしまう。普段は恐らく『行為』が思い出を押し止めているのだろう。その時は辛さを実感しないために何もなく過ごしていられるのだ。しかし『現象』が『行為』を打ち負かした瞬間、過ぎ去った過去が新しい思い出としてこの雰囲気と共に記憶されてしまう。だから思い出がいつまでも残ってしまう。悲しい思い出ほど増幅されて増幅されて、どうしようもなくなるまで膨らんで行く。
 光の中にいる充実感を満喫しながらも、何処かで後ろ向きに考えてしまう自分がいた。また夕日を見ることがあれば、きっと思い出してしまわずにはいられないだろう。
「雰囲気か・・・疲れているんだな」つぶやいてみる。それは自分に対する言い訳でしかない。
 ふと我に返ると、視線の先に主人の姿があった。主人は彼の前に白い湯気を立てたコーヒーカップと、少し香りのするパイを並べた。
「お待たせいたしました。ブレンドコーヒーと『スウィートヘヴン』です。温かいうちにお召し上がりください」
「どうも・・・」
 彼がその聞きなれない名前に反応するまでしばらく時間を要した。『スウィートヘヴン』は一見普通のパイのようだった。彼は注文したパイセットについて、アップルパイか何かだと思い込んでいた。
「これ、スイートヘブンというのですか?聞きなれない名前ですね。中身は何ですか?」
「よく同じ事を聞かれます。ヨーロッパ風のフルーツとクリームのパイです」
主人は静かな微笑みで教えてくれた。
「スウィートヘヴン、甘い天国。極楽浄土とか言う意味ですか?」
「さぁ、直訳するとそうなりますか。スウィートヘヴンって、昔、私がヨーロッパの小さな国へ行ったときに食べたパイの名前なんですよ。そこから拝借しました」
「ほぅ」
「どうぞ、温かいうちに香りをお楽しみください。スウィートヘヴンはパイ生地を割った瞬間の香りがの一番おいしいのです」
 彼は主人の言うとおりに小さなフォークでパイ生地を割った。
「ああ、良い香りですね。果物の香りがする、桃、かな」
「ええ、桃も使っています。あと何種類かシロップ漬けにしたフルーツを生地に織り込んで焼き上げました」
「私、料理にはあまり詳しくないもので・・・でも本当、いい香りがします」
彼はパイを一口、ほうばった。半分溶けた果肉が、熱いスープになって口に中に広がってゆく。舌の先で少し熱いと感じたが、それでも心地良い甘さが体中に浸透するようだった。
「おいしい。ああ、やっぱり疲れた時には甘いものが一番ですね」
「ありがとうございます。これは一番のおすすめメニューなんですよ。正直なところ、このパイに出会わなかったら、私はこの店を出さなかったかもしれません」
主人の笑顔がより深くなった。客から『おいしい』と誉められることが心底幸せなのだろう。
「思い入れがあるのですね。こちらのお店は、もう長いのですか?」
「そうですねぇ、一応今年の夏で足掛け10年になります」
主人が夕日を見つめながら続けた。
「こんなこといったらあれですけれど、私、全く違う仕事からこの店を開いたんですよ。ですから、それほどたいした物お出しできませんが、精一杯納得の行くものを作るようにしています。それでお客様に喜んでいただければうれしいですね」
「そんな、このパイすごくおいしいですよ。それにコーヒーだっていい香りですし。それに・・・」
彼も窓の外の夕日をみた。
「お店の雰囲気、夕暮れ時にぴったりだと思います。いい雰囲気にいられるだけでも幸せですよ」
主人が『はははっ』と笑って答えた。
「ありがとうございます。お客さん、お上手ですね。少しお話していいですか?」
 よい退屈凌ぎと思い、彼も拒否しなかった。
「ええ、結構ですよ」
主人はパイプ椅子をカウンターの下から出してきて、それに腰掛けた。
「ご旅行ですか。どちらから来られたのですか?」
「東京です」
「そう、東京ですか。私、ずっと調布に住んでいたんですよ。お客さんは?」
「わりと近所だ。私、吉祥寺です」
「ああ、そうですか。時々行きましたよ、井の頭公園。良いところにお住まいですね」
「まだそんなに長くは住んでいませんが。中央線は便利でいいですよ。ここまで来るのにも一本ですし」
「今日はお仕事、お休み取られたんですか?」
「ええ、人様が休んでいる時でないと出来ない仕事が入ってしまいまして。おかげでゴールデンウィークは土日も仕事をの予定です。それにここしばらく残業続きで。連休の替わりに2、3日振り替えたんです。休めそうな時に休んでおかないと、これから先身体が持ちませんから」
彼はコーヒーを一口含んだ。
「この先の温泉で骨休めですか?」
「そのつもりです。でもまだ宿は取っていません。昨日突然何処かへ出かけたい衝動に駆られまして、準備もなにもなしに飛び出してきたようなものです。たしか去年、車でこのあたりを通りかかった時に温泉街があったとような気がして。それでさっき、そこの案内所へ行ってみたんですが、誰もいなくてどうしようかと思っていたところです」
「それじゃぁまだ目星も付けてないんですか?」
「ええ、今の時期なら予約を入れなくても何処か泊めてくれるところはあるだろうと思うんですが」
「ええ、大丈夫だと思いますよ。でも、よろしければご紹介しましょうか?」
渡りに船とはこの事である。地元の人に紹介されるなら安心だと彼は思った。
「何処かご存知の宿があるんですか?」
「ご存知も何も、うちの息子夫婦が少し先でペンションをしているんですよ。どういうわけか、子供も親の後を追いかけてきて同じ場所で商売してます。一応温泉もありますので・・・そうだ、確かお客さん、駅からずっと歩いてこられたんですよねぇ。丁度いい、湖を見ながら温泉に入れるんですよ、あそこは。ゆっくり出来ると思いますよ」
今度、主人はカウンターの下からパンフレットを取り出し、彼の前に置いた。。
「ここなんですが・・・」
 表紙の写真は夕暮れ時、ちょうど今ぐらいの時間のもののようで、夕日の沈みかけた湖と、窓に明かりを点す建物が写っていた。
「本当に湖のほとりですね。でも、もうこの時間だと夕日を見ながら風呂へは入れませんね」
「ああっ!、確かにそうですね。これからいっても、ついた頃には日は暮れてしまいますね。もうちょっと早ければ・・・」
 主人は残念そうな顔をして窓の外を見た。彼はパンフレットをめくり、そのペンションの説明を読み進んだ。彼の目線を追ってか、主人は彼の読んでいる部分、部分でパンフレットには書かれていない内容を話してくれた。
 それでも、何のことはない、普通のペンションだと彼は思ったが、料金も手ごろだし、ここからも近い温泉宿なので、今夜はそこに泊まることを決めた。
「いいところですね。お願いできますか」
「それじゃぁ連絡してみますので、ちょっとお待ちください」
 主人は、夕日の色を白いシャツの背中に背負って奥へと戻っていった。気がつけば、先ほどまで黄金色だった光は、何時の間にか真っ赤な色に染まっていた。
『あのマスター、脱サラなのかなぁ』彼は『スウィートヘブン』を一口、二口とほうばりながら、漠然と考えた。自分がマスターぐらいの年になった時、一体何をしているのだろう。今の会社で、もう少しだけ偉くなっているのか、それとも別のことをしているのか。
 そもそも、彼は街の生活に疲れて、息抜きのためこの小旅行にやってきたのだが、その旅先でも辛いことをいくつか思い出してしまった。そしてここの主人をうらやましく思った。夕日というのは人に何かしら考えさせるものらしい。
 そう言えば昔、夕日について不思議な話を聞いたことがある。それは、大きな街に沈む夕日ほど赤く、大地震や大火事の後の夕日は普段にも増して赤くなる、というものだった。その話を聞いた時、夕日が赤くなるわけを聞いたが、その話をした人もその訳は分からないといっていた。
 なぜ赤いのだろう?
「お客さん、大丈夫でしたよ。ただ夕食の準備中のようなので、もうしばらく待っていてください」
フォークを持ったまま、窓の外を眺めていた彼の背後から、主人が声をかけた。
「そうですか。ありがとうございます、助かりました」
「いえ、どういたしまして。それにしても今日の夕日は妙に赤いですね。まるで夏の夕方みたいだ」
「どうしてですかね?」
ふと思い付いた疑問が、言葉から先に発せられた。
「ほら、夏になるとこの湖の水が蒸発して霞を作るんですよ。それでその霞のカーテンを光りが抜けてくると赤く染まるんです。というよりは太陽の光の赤い成分しか抜けてこないんです。今日は真夏みたいな陽気でしたから、きっとそんな感じでしょう」
「へぇ、そうなんですか。以前、不思議な夕日の話を聞いたことがあるのですが・・・」
主人が再びパイプ椅子に腰掛け、『ふむふむ』という表情で話し始めた彼に見入った。
「どんな話ですか?」
「夕日は大きな街に沈むやつほど赤くて、それで、大地震や大火事の後の夕日も必ず赤いというやつなんですが、マスター聞いたことありますか?」
主人は何度か首をかしげ、ゆっくりと答えた。
「聞いたことありませんね。でも、なるほど、と思います」
「・・・?」
「ここの夏の夕日と同じ理由だと思います。きっと最近の話ですよね、それ。」
「さあ、何年か前に聞いた話だったのですが」
「ほら、あれですよ。大きな街は排気ガスやちりなんかで空気が汚れているじゃないですか。だからそのカーテンに遮られて赤い光しか見えなくなるんですよ」
「なるほど、たしか赤い光のほうが波長が短いから。短波ラジオみたいなものですか」
その一言には主人も首をかしげた。
「短波ラジオと同じかどうか、それは分かりませんけれど。そう言えば大地震の時は空気中のイオンがどうのこうのという話もテレビで見たことがありますね」
「私は文系でしたから、イオンとかと言うのは分からないです」
少し砕けた笑顔で、主人が笑った。そして胸ポケットから煙草を取り出し吸い始めた。彼も思い出したように自分の煙草を取り出した。そこへ主人がライターを差し出し、火を付けてくれた。
「私も文系なので難しいことは分かりません。何でも地中の磁場と空中のイオンが反応して、夕日のみたいに光るらしいですよ」
「へえ、初めて聞きました。不思議なことがあるものですね。でも大火事の時は燃える炎が赤くなるって事なんですかね」
彼は煙草の先でくすぶる火種を指差していった。
「さぁどうでしょう?」
そう答えると主人も自分の煙草の火種を見つめ、一瞬考えるような視線で煙草の先から立ち昇る煙を見つめた。
「ああ、火事の時は煙のカーテンが光を遮るんじゃないでしょうか?」
 夕日がだんだんと弱まって行くに連れ、店の中にあふれていた色が薄くなって行く。代わって蛍光燈と電球の人工的で、柔らかい明かりが雰囲気を支配し始めた。
「マスター、夕日ってお好きですか?」
「ええ、奇麗でいいじゃないですか」
主人はこともなげに答えた。
「何かこう、寂しい気分になったりしませんか?明るい光からだんだんと暗くなるにしたがって気分が落ち込んで行くようで。見た目には奇麗だと思いますが、寂しい感じがします」
「そうですね。一日の終わりって感じもしますね・・・」
主人も今度は少しうつむいた仕種で答え、そして煙草を灰皿に押し付けた。
「でも、ここでこの商売していると夕日が沈んでからも忙しいですから。特にこれから夏にかけては特に、ですから感傷に浸るなんてしばらくなかったですね」
「なるほど・・・下手に暇を持て余しているよりも何かしていたほうが人間は元気になれるんでしょうね」
小さな声で、疲れたたため息と共に頬杖をついてつぶやいてみる。すると主人が心配そうな目で彼を見つめた。はっとした表情で彼はその視線に答えた。
「すみません。夕日を見てついいろいろなことを思い出してしまったんです。話が暗くなってしまいましたね」
そして彼は冷めかけたコーヒーを飲み干した。
「マスター、コーヒーだけお代わりください」

4.思い出の残し方

 もう太陽は見えない。夕焼けの色が天空に、紅から藍への継ぎ目のないグラデーションを描いている。
「お疲れなんですね」
替わりのコーヒーを運んできた主人が言った。彼は少々引きつった笑顔で会釈し、そしてとにかく何気ない声で答えうよう努めた。
「ええ、どうしても思い出してしまうことがあって・・・。それで気晴らしでもしようと思ってここへ来たと言うのが正直なところです」
 主人は運んできたコーヒーカップを彼の前に置くと、そっとカップの取っ手を回して、客が取り易い位置に止めた。
「お仕事、大変なのですか?」
「いえ、お蔭様で仕事は順調で、やり甲斐もあります。でもそれだけでは片付かないこともありまして、お恥ずかしい話ですが」
彼はそこで言葉を切り、運ばれてきたばかりの熱いコーヒーにクリームと、砂糖を小さじ一杯溶かした。
「沈みっぱなしの太陽なんてありませんよ」
主人の突然の言葉に、彼はコーヒーを混ぜる手を止めた。
「えっ?」
「いえ、それほど深い意味はありません。ただ、そういうものだということだけです」
鼻で少し笑いながら、その言葉の意味を噛み締めた。主人は彼の前にあった伝票をとり、恐らく追加のコーヒーの金額だろうが、何かを書き込んでから表を下に向け、再びカウンターに置き直した。彼は主人のその仕種を目で追いかけたが、主人は彼と視線を合わせようとしない。下を向いたまま、言葉を付け足した。
「夕方から夜になっても、必ず朝はきます。大昔の人間は朝が来る事を祈って、色々な儀式をしていたそうですけれど、実際には人間が何もしなくても朝はきます」
「・・・」
主人は一呼吸おいた。
「辛いとか、悲しいとか、思っていてもいなくても、時がくれば忘れてしまうでしょうし、もしかしたらもっと楽しいことが起こるのかもしれません。新しいこと、素晴らしいことは、いつも身の回りで起こっているのに、それに気づかないで過去の思い出に縛られてしまっているだけなのだと思います」
「でも、過ぎたことを後悔しないというか、未練を持っていない人なんて、いやしません。人間だれしも、ふっと思い出してしまうことがあるのではないでしょうか」
彼はコーヒーカップを取り上げて言葉を返すと、熱いコーヒーを一口流し込んだ。すると口の中に香りが広がり、それが体中に浸透するのと同じ速さで、寒い血流が彼の背筋を流れる。彼が感情を正直に表に出した時、殊に沽券をかけて人に対して自分の意志をぶつけた時はいつも同じ感覚が彼の背筋を冷たくする。たとえそれが正論であったとしても、自然な感情を表現した時であっても同じだった。彼には自分の言葉が他人との諍いの原因になることを極端に恐れる妙な癖があった。
 ゆっくりと力なくカップをおろすと、『カチンッ』と皿とスプーンが高い音を立て、白いカップの中では褐色が鈍い光を反射し、ゆらゆらとゆれた。そして彼がコーヒーを飲み込むタイミングを待っていたように、主人が呟いた。
 「おっしゃる通りだと思います。誰でも何かしらそういう事があると思います。思い出してしまうこともあるでしょう。だから無理矢理忘れようなんて思わないで、自然と忘れて行くのを待つしかありません。そうしている間に目の前で起こることを正直に感じていれば少しは気楽になるのではないですか」
 主人の言葉は優しく暖かな余韻を残して彼の心の中に残った。しかし、その言葉の意図するところを探し当てることは出来なかった。
「乱暴な言い方ですが、人間なんて目の前で起こっていることしか分からない生き物ですよね。そのくせ、昔経験したこと大きくしたり小さくしたりして記憶の中で遊んでいる。だから良い思い出しかない人は、その夢をもう一度見ようとして四苦八苦して、挙げ句の果てにどうしようもない絶望を味わうこともある。でも運の良い人は同じ夢を何度も見る事だってあるのでしょうけど、普通の人間はそうは行かない。だから目の前にいる運の良い人と昔の自分を重ねあわせて苦しい思いをする・・・。それならばいっそ流れに任せて生きていったほうが楽ではないですか?あまり偉そうなことは言えませんが、私はこう思うことにしているんです。
 どんなに努力しても、どんなに怠惰に生きていても、それは結局運命の中でそうなっている。どんなにあがいても天の手の中で他愛もない悪ふざけをしているだけなんだ。というように・・・。
 ああっ、でも怠慢に生きることを薦めているわけではないですよ。考え方の話をしているだけなんですが。努力したってうまく行かないこともあれば、努力しなくてもうまく行くこともある。人生山あり谷あり。山がなければ谷もない。谷がなければ山もない。山谷がなければ平地もない・・・いやぁ、これはどうも説教臭くなってすみません」
 話を続けるうちに、急に主人の活舌の良さが消えた。彼が目線をあげると、照れ笑いをする主人の白い歯が目に入る。その表情はそれまでの主人の印象とは少し違って見えた。彼の目線に気がついたのか、主人も彼と目を合わせ、そして白髪を軽く人差し指で撫でるように掻き上げる仕種に、彼は妙な人間臭さを感じた。
「ありがとうございます。よいお話を聞けたような気がします」
 実際のところ、彼は主人の話の筋を整理しきれなかったのだが、その気持ちに対して礼を言った。それを知ってか知らずか、主人が答える。
「何か言おうと思うと、とんでもないことまで口にしてしまうものですね」
『はははっ』と笑って主人はパイプ椅子に腰掛けて煙草を吹かし始めた。
『結局、忘れることなど出来ないのか・・・』彼は思った。
「もう息子が迎えに来るはずなのですが、遅いですねぇ。一服ついていてください」
咥え煙草の主人が『よいしょっ』と立ち上がり、店の奥へと行った。彼はその後ろ姿に、今まで主人が生きてきた足跡を見つけたような気がした。
 こうやって『気の利いた』店を切り盛りしている後ろ側には、家族があり人生があり、ポリシーがある。だから味わいのある人柄が染み出て来るのだろう。
 彼も煙草を咥えてそれを吸おうと、ライターのボタンを押すが、火が点かない。2度3度繰り返しても同じだったので、煙草をあきらめようと思ったが、店に備え付けのマッチか何かがないかを探してみた。こうゆうものは意識して探さないと、視野に入らないのかもしれない。マッチは彼の目前にいくつか積まれていた。
 カウンターの上に置かれたそれらマッチ箱のうちの一つを取り上げてみると、白い滑らかな手触りがして、その表に店名がプリントされている。
『喫茶 SweetHeaven
    電話番号 05・・・・・・・・・・』
「甘い天国、か・・・」
一人呟いてみる。
大きな窓の外には街灯の光を弱々と映し出す湖が見えた。