Sweet Heaven Photograph & Words.
 駅前のバス通りを一つ曲がった横道にある居酒屋。白木のカウンターには老人。暖かい色の照明のせいで、少々寂しい頭髪の白髪が目立つ。頬がこけた顔に乗せた時代遅れの眼鏡の奥では、くりっとした目が緩んでいる。箸置きの割り箸をつまみあげ、梅の柄の器に盛られた里芋の煮物を半分に割る。割った半分をつまんで、煮つゆを少し絡ませる。里芋の粘りを含んだ汁は、箸で割られた粗い切れ口にほど良くなじんだ。それをやおら口元へ運び、大きく口を開けてほうばり、『ほぐほぐ』と。今日の煮物の芋は、わりあいと大振りだ。芋の一口を喰い終えると、つやのある黒塗りの一合升に収まったグラスを取り、少し残っていた酒をあおる。酒が口の中に吸い込まれ、味蕾に残っていた芋の旨味と甘みとともに、喉から腹へ落ちてゆく。そしてグラスをカウンターに置き、黒い漆塗り風の升を持ち上げて、その角をグラスの縁に振って、朱塗りの底に残った酒の滴を落とす。もう一度グラスを持ちあげたあと、ちょいと勢いをつけて傾けて、最後の一滴を口腔に落とした。老人はグラスを升に戻した。
「マスター、大辛口をもう半分もらえるかいね」
カウンターの奥に立つ、白い割烹着の店主に声をかける。襟首の色と同じ藍色の豆絞りのねじりはちまきを巻いたマスターは「あいよ」と言って酒の支度を始めた。
 『もう半分』はいつものことだ。日本酒を一合注文して、刺身やしめ鯖を喰う。ゆっくり、ちびりちびりとやりながら、酒八分目ほどで肴を喰い終える。そして煮物を頼む。カウンターの上の段には、いくつかの煮物が大皿に盛られ並べられている。大皿料理だからといってこの店は手を抜かないし、それなりの値段で出す。注文を受けた煮物を大皿から器に盛って、そのまますぐに客に出したりはしない。大皿料理の最初の行き先は、カウンターの下のほうから取り出さるミルクパンほどの行平だ。マスターが菜箸や小ぶりの杓子を流麗に操り、大皿から行平に具材と煮込みのつゆを取り分ける。鍋は客から見える壁際のコンロにかけられる。大皿の上で冷めた料理に、もう一度火を入れ温めてから器に盛りつけ、かざりの青いものを添える。大皿に盛られてカウンターに載せられている間、料理たちもただ黙って時を過ごしているわけではない。かすかな香りで客を楽しませつつ誘い、自らはその中に旨味や味をさらに染み込ませる。そしてマスターが最後の手仕事をすることで、客は湯気のわく芋を喰うことができるのだ。
 その晩のおすすめは、カウンター横の黒板にはっきりとした白い字で書き連ねられている。それはいつも十品ほどだろう。一つ目の刺身から始まり酢の物や煮魚、時には肉料理が並ぶこともある。半ばより後ろに煮物が数種類。ここまでがおすすめの料理で、そのうしろの二つは必ず飯ものと漬物、そして最後に酒が何種類か載る。今夜の一つ目はマグロの赤身、そして煮物の筆頭は里芋だ。一つ目の肴と煮物の筆頭、この二つが老人のいつもの注文である。そして『もう半分』となる。
 「同じのでいい?今日は珍しい生原酒なんかもありますよ」
老人は時々、いつもより上等な酒を注文することがある。実入りがあった日なのか、何か良いことでもあった日か、それともただの気分なのか。今夜は「同じのでいいよ」と少し手を振りながら笑顔で答えた。
「お燗しますか?」
今日も冷えますね、などと言うマスターの眼には、テレビの中の天気図とそれを解説するかわいらしいキャスターの姿が映っている。冬型の気圧配置で外は冷たく強い風が吹いている。もちろん店の中は温かいけれど、どこかから紛れ込んでくる冷気を感じる。マスターは老人の小さくうなずく仕草を見逃さない。そして老人の好みも心得ていた。良い酒をやるときは燗をしない。寒い日、いつもの酒をもう半分と言ったときは、人肌よりももう少し温めの燗を付ける。マスターは七分袖を少し整えてから、一升瓶の栓を抜き、ちろりの取っ手を持ちあげて、そこにとぷとぷと酒を注ぐ。鈍い銅色のちろりを、湯が張られた四角い酒燗器に浸す。銀色の槽の湯は少し嵩を増して揺れる。そこには八分目に満たされたちろりが二つ浸されている、そして半分くらいのちろりの取っ手が、そのへりに掛けられた。暖色の照明の下、酒燗器からかすかな湯気が静かにゆらゆらと立ち上る。マスターは湯気の向こうから、カウンターの大皿と大皿の間に腕を伸ばして、老人の前の升とグラスを下げた。グラスをカウンターの裏の洗い場におろすと、振り返って背中を向け、食器棚から湯呑ほど大きさの猪口をおろし、大皿の横に置いた。そして八分目のちろりを取り上げて、中身を猪口に注ぐ。そして八分目のちろりを酒燗器にもどすと、マスターは視線を下に落とした。ジャーという水音がグラスや升を洗い流した。音が消えると、マスターの手が再び猪口を取り上げて、水音の聞こえたあたりに飲み口を傾けて中身を流す。あたたかみの残る内側を乾布でぬぐい、あらためてカウンターの上に置く。前座は席を温めて高座を降りた。そして舞台の袖で体を温め、出番を待っていた真打を、席亭が高座に招き入れる。
 猪口に注がれる酒を、客は嬉しそうに見ていた。その笑顔は小屋に響く万雷の拍手である。マスターがちろりを傾ける。そして酒は酒器の六分目ほど。
「まるさん、上燗、お待たせでした」
マスターの声に、老人は猪口を持ち上げた。老人は名字から一文字をとって『まるさん』と呼ばれている。温もりを得た酒は、水菓子のような甘い香りとなって、飲み口のあたりからほのかにカウンターに広がってゆく。まるさんはそれを楽しむように、口を突き出して果実を舐める。グイとは飲まずに、すするように。五勺の酒は舌先に乗り、そして鼻孔を抜け、からだの中に消えてゆく。一升の酒に我を忘れて高説を垂れるより、五勺の酒を笑みでやるほうがうまいだろう。まるさんはいつも静かに、嬉しそうに酒を飲んでいた。
 まるさんは決して悪酔いはしなかった。しかし、気が緩むこともあるのだろう。払いを終えた財布を忘れて暖簾を出て行き、女将と財布が慌ててその後を追いかけたこともあった。ある日、上着を忘れてゆき、次の日に二枚の上着を羽織って帰ったこともあった。
 小学校に上がった下の孫がね、私の顔をかいてくれたんだよ。嬉しそうに話をすることもあれば、上の子は来年は受験だから、娘がピリピリしてんだよ、などと元気がなさそうな夜もあった。この正月は娘夫婦と孫と六人で賑やかだったよ、などぽつぽつと聞く話は他愛のないものだった。時々、仲間が亡くなったと俯いていたこともあったけど、いつも『もう半分』のあとは、穏やかに帰っていく人だった。
 とても暑い日が続いた年、夏の名残の日の秋刀魚を最後に、まるさんは姿を見せなくなった。初霜のころまではまるさんのことを訊く客もいたが、年明けにはそんな話題を耳にしなくなった。この町に店を開いて十年くらいになる。まるさんはその頃からの馴染みなので、店主も女将もずっと気になっていた。
 珍しく雪が降った日の夜、薄明り残る時間の客は、早々に河岸を変えた。早い客が引けると、暖簾は風に揺れるばかりで、戸は開かない。店主と女将が見る通りは、少し積もった白いもののせいでいつもより明るい。積もったか積もらなかったかの雪でも、客足を阻むようだ。マスターはカウンター越しに、女将は小上がりに腰かけて、棚の上に据えられたテレビを見あげている。天気予報の等圧線は南北に細く狭くのびている。明日もまた寒い日になりそうだ。どこからかいつのまにか入り込んでくる冷たい空気に、女将は茜の作務衣の襟を直す。
 からからと扉が開いて、もっと冷たい空気が女将の足元に吹き込んできた。暖簾の下では二人連れが店の中の様子を窺っている。女将が腰を上げて客を迎え入れる。女二人。仕事帰りだろうか。「いらっしゃい」と言いながら、二本の傘を受け取り、傘立てに収める。二人とも見覚えのない顔だ。
「お二人様ですか?」
「はい」
若い女は赤い両手をこすり合わせ、寒そうな息遣いで答えた。年配のほうは後ろ手に戸を閉める。冷気が遮られると、店の中の温もりが戸口にもどり、白い息が消えた。
 女将は客を三卓ある小上がりの一番奥、壁際の席に通した。二人は雨靴を脱ぎ、座敷にあがる。若い女は二つのバッグを壁際に置いた。女将が奥の壁に掛けてあったハンガーを若いほうに渡すと、上着を脱いでハンガーに袖を通し、それを壁のフックに掛けた。そして年配のほうのコートも受け取り、同じように壁に掛けた。
「寒いからこっち来たら」
若い女は年配の女を壁側の席をすすめ、二人は立ち位置を入れ替えてから、座卓をはさんで向かい合わせに腰を下ろした。年配の女はゆっくりとあたりを見回している。そしてもう一人は献立のページをめっている。女将が保温ボックスの手拭きを渡しがてら、声をかける。
「お寒かったですね、お飲み物はいかがしましょうか」
二人はそれまでの動きを止め、女将から手拭を受け取ると、その温もりを両手にしみこませた。飲み慣れていない様子だ。そう思った女将は、黒板の料理を案内をしたり、献立の飲み物を示して話をしながら、好みを探った。
「とりあえずビールをお持ちしましょうか」促されて、若いほうの客が首を縦に振った。女将は作務衣の腰に巻いた紺色の前掛けのポケットからペンをとり、小上がりの横の柱に掛けた伝票に注文を書きながら、カウンターのマスターに声をかける。
「瓶ビールいっちょです」
マスターは「あいよ」と答える。そしてカウンターの上の盆にグラスと小皿、そして箸袋と箸置き、それぞれ二つ用意すると奥に下がり、冷蔵ボックスから銀色のラベルの瓶を取り出した。カウンター席の前に戻ったマスターが、その盆の上にビール瓶を乗せる。そして女将が盆を取り、小上がりの卓にビール瓶をおろして、グラスを銘々の前に置いた。客は黒板やカウンターの上の大皿を見回して、料理を品定めしている。この日の刺身はブリ、イカとブリと赤身の盛り、そしてマグロの赤身。大皿は里芋煮、厚揚げと大根の炊き合わせ、そしてアラと根菜の煮物。マスターはこの二人はまず厚揚げ大根を入れるだろうと思っていたが、それは違った。二人は漬物盛り合わせと、刺身の盛り合わせを注文した。女将は小皿と箸、箸置きを二人分、小上がりの卓にしつらえながら、注文の品をマスターに伝えた。二人は相変わらずあたりを見回しながらも、女将に何か意味ありげな視線を向けていた。
「なにか」
女将が笑顔で声をかけると、年配の女が言った。
「あの、メガネの年寄りが・・・」
カウンターの向こうで漬物の支度をはじめたマスターが、一瞬だけ手を止めて顔をあげた。
「しばらく前まで、メガネの年寄りがこちらでお世話になっておりませんでしたか?」
女将もマスターも内心「はっ」とした。あの老人『まるさん』のことではないか、と直感した。
「少し白髪の、黒縁のメガネをかけて、目ギョロっとした」
若いほうが話をつづけた。間違いないようだ。女将が受けた。
「まるさん、のことですか?」
「そう、ああ、たぶんそうです」
若いほうはまるさんの名前を言った。ふたりはまるさんの奥さんと娘さんだという。女将はますます嫌な予感が強くなった。マスターも同じだろう。女将は卓の上のまだ注がれていないビール瓶を持って、二人にすすめた。女性の小さな掌にも隠れそうな一口グラス、まずそのうちの一つに白い泡が落ちてゆき、実りの季節の暖かな黄金色が満たされた。
「まるさん、最近は・・・」
あえて言葉を途中で止めて、ふたつめのグラスにも瓶を傾ける。飲み口に淡雪が積もるまでのほんの数秒、話し声が止んでいた。そして女将がもう一度口を開こうとしたとき、沈黙の向こうからマスターの声が聞こえた。
「漬け盛り、あがり」
女将はビール瓶を卓の上に静かに置き、カウンターに向かいなおして、その上に置かれている白地を濃い緋色が彩る陶器を取った。器の中には白菜の白、野沢菜の緑、人参の赤、茄子の紫が盛られている。白菜と人参からは親しんだ糠のかすかな香り、そして茄子は爽やかな酢の香りがする。
「おまたせしました。お漬物の盛り合わせです」
女将がその香りを卓に運ぶ。そして卓に置こうとしたら、娘が「はぁい」と手を出して器を受け取り、卓の上におろした。そして少し座り直し、顔を上げて話を始めた。
「実は」
女将は娘の目を見た。その声はマスターにも聞こえていた。冷蔵庫から刺身のツマと大葉を取り出しながら、娘が女将に話すことばを聞く。
「父は年末に亡くなりました」
「え、」
女将はそう言っただけで、言葉をつなぐことができなかった。店ではこれまでも常連から誰れ其れが亡くなった、という話を聞いたことがあるし、いろいろな付き合いがあったお客の葬式に行ったこともある。でもご家族から不祝儀を聞くのは初めてのことだった。この人からまるさんの名前を聞いたときに心の準備はできていたけれど、とっさに言葉を続けることができなかった。「それはそれはご愁傷さまです」などの口先だけの文句で答える気持ちになれなかった。家族のような付き合い、というほどでもなかった。店と客の間柄でしかなかったけれど、何年ものあいだ、毎週顔を合わせていれば、おのずと情が移る。
 まるさんは昨秋に体調を崩し、入院したらしい。そしてクリスマスソングがきこえている頃に亡くなってしまったという。
「しばらくお見えにならなかったので、心配していたのですが」
女将はそう言ったものの、「心配していた」という言い方が社交辞令のように冷たい言葉に聞こえてはいないかと気になった。老細君は伏し目がちに座っている。話はほんの一、二分。グラスの飲み口の雪は消えかけていた。話が途切れると、女将は軽くお辞儀して、小上がりを離れた。
 扉のガラスの向こうは寒い夜。二人の客は少しずつグラスを傾けながら、箸を進めている。ボリュームを絞ってほとんど音を消したテレビには、難しい顔をした政治家の姿が映っている。暖房のかすかな音と、マスターの手仕事の音の合間に、「このお漬物、おいしい」という小さな声が聞こえた。暖房の吹き出し口からの温かい空気に混ざって、どこからかのかすかな冷気がさす。
「刺身盛り、お待たせ」
マスターはいつもより小声なのに、それがいやにはっきりと聞こえた。雪は音を吸うというけれど、少ししか積もっていない雪でも、町中に静けさを作り出すのだろうか。店の奥の暖簾の前で待っていた女将が「あいよ」と、やはりいつもより小声で答えた。
すし下駄に盛り付けられた紅白が、数枚の大葉の上でとても鮮やかに見える。
「お待たせしました。イカ、ブリ、マグロのお刺身の盛り合わせです」
女将がそれを卓に乗せる。そして醤油の小皿を取ろうと振り返ると、カウンターの向こうからマスターが出てきていた。マスターが醤油皿を卓に置いた。客はマスターを見た。
「ご主人のこと、知りませんでした」
悔みの挨拶をしながら、マスターは頭を下げた。横に立っていた女将も、店主に合わせて頭を下げた。客の二人は座りなおして、こちらも頭を下げた。
「長い間お世話になってましたので、お見舞いにでも行ければよかったのですが」
言葉に間を置いた。
「そうだったんですね」
マスターも女将と同じで、うまい言い方を見つかけられなかった。
「元気だった時分には、お宅様に大変お世話になっていると話しておりました。ご挨拶にお伺いしなければと思っておりましたが、遅くなりまして」
老女が穏やかに、深い息をするように言った。そしてもういちど頭を下げた。深々とゆっくりと。店主と女将は「いえいえ、そんな」と腰を低くする。そして四人は互いに頭を下げながら、悼みの言葉を交わす。差しさわりのない言葉がしばらく続いた後、老細君がぽつりと。
「主人は亡くなる前に、もう一度こちらへお伺いしたい、と申しておりました」
それが本当かはわからない。女将は老人が酒を飲みながら、刺身を食べている姿を思い出した。思い浮ぶ老人の顔は穏やかに微笑んでいる。この店にもう一度来たい、本当にそう言っていたかどうかわからないけれど、まるさんにはこの店を気に入ってもらっていたと思う。
「ご主人さまもよくお刺身をお召し上がりでしたよ」
女将もマスターが言ったことと同じことを思い出していた。マスターは二人に刺身と酒をすすめて、カウンターの裏へ戻った。
 老細君が一杯目のグラスを終えぬうちに、娘は二杯目をほとんど飲んだ。瓶には残りが少ない。母が娘に「お酒、飲む」と聞く。娘は壁の短冊を見た。壁の短冊には、店でいつも出しているビールや焼酎割りと、このあたりの酒蔵の地酒をいくつか張り出している。白い短冊はちょうどこの正月に書き換えたばかりで、まだ店の油が滲んではいない。カウンター横の黒板には、時々入る珍しい日本酒や焼酎を載せている。今日の酒は鹿児島の焼酎、青森と愛媛の日本酒だ。娘は視線を左右させて、白と黒を何度か見まわした。そして店の奥に控えている女将に声をかけた。
「あの、父は何を頼んでいましたか?日本酒でしたか?」
女将は、カウンターの向こうで腰に手を当ててテレビを見上げているマスターを見た。マスターも女将のほうを見た。そして「そうですね」と言いながら、グラスで冷や酒を飲む老人の姿を思い出した。細君と娘も店主を見ている。
「刺身のときは、日本酒を冷やでお飲みになっていましたね」
娘は「やっぱり」と言いながら、壁際に立てかけておいたメニューを取り上げて開いた。そして最初のページに書かれている日本酒のあたりを指でなぞった。老母も遠目にそのページを見ている。
「冷や酒ならこの蒼天か、あと今日は南部美人もおいしいですよ」
女将は手を伸ばして、酒の銘を並べている短冊のあたりを指さした。
「ご主人のお好みは純米吟醸か、辛口でしたね」
いつも置いている酒は、メニューに写真を載せている。客は純米と辛口を見ていた。女将は娘の座に歩み寄り、中腰になって座客と目線の高さを合わせた。
「これは日本酒では一番よくでますね」
辛口を指さす。
「で、こちらは純米吟醸なので、飲みやすくて、冷やで飲むと、とっても香りがいいんです」
娘の視線が蒼天の写真で止まった。
「お母さんも飲む?」
娘は一緒にメニューを見ている母親のほうを見た。老細君はメニューから目を上げて答えた。
「もうわたしは、少しだけでいいよ」
「この純米吟醸のお酒をお願いします」
娘は女将のほうを見て言った。
「冷やでよろしいですか?」
「はい」
「ありがとうございます。一番さま、蒼天、冷やいっちょです」
客はこの二人だけなのだが、女将はいつもの調子で注文を復唱した。カウンターからも「ありがとうございます」の掛け声が返ってきた。女将は店の奥の暖簾に消えた。
「お母さん、バッグのあれ、取って」
老細君は背後の壁のほうに少し体を向けて、娘のバッグの口を開く。そして薄い長方形の手のひらほどの大きさの紙箱を取り出し、娘に差し出した。娘は卓越しに手を伸ばしてそれを受け取り、受け取りがてら手前の蓋を開いて、中のものを取り出した。そして箱を母親に返す。手に持ったのは小さな写真立てだ。ガラスか樹脂の透明なカバーと、白い台紙の間には、スーツを着た男の姿がある。もちろんそれはまるさんだったが、この店で見せた面相とは印象が違うものだった。仕立てのよさそうなスーツを着ている。髪は少ないが白髪は目立たない。見覚えのあるメガネの奥の眼は鋭く、厳しい。娘はその写真立てを自分の右手の壁側に立てた。
 女将はグラスと升、そしてもうひとつ小さなグラスを盆にのせてきた。それを見ていたマスターが、女将に声をかける。
「おーい、」
女将は升に収まったグラスを娘の前に、もう一つのグラスを母親の前に置きながら「はーい」と応じる。振り向かない女将をしり目に、マスターはカウンターからその奥のほうに消えていった。女将がカウンターのほうを向くと、マスターは店の奥の暖簾の中から客席に出て、持ってきたもう一つ小さなグラスを女将に手渡し、すぐに戻っていった。女将は「あっ」と気が付いたような表情で三つ目のグラスを手に取った。そして卓の奥の写真立てを見た。するとグラスを両手で持ち直して、そっと目を閉じ、拝するように少しだけグラスを持ち上げた。ゆっくりと目を開くと、そっと静かに、グラスを写真立ての前に置く。女将の両側に座る親子が頭を下げた。
女将は黙って会釈し、暖簾の裏に戻り一升瓶を座に供した。
「純米大吟醸、蒼天です」
と言って、和紙に金文字で記されたラベルを二人に見せた。そして左手で瓶の首をしっかり握り、右手の指先に力を込めた。『ポッ』と音がして、かすかな吟醸香が小上がりに広がった。
「前を失礼します」
まるさんのグラスに酒を少し注いだ。そして声をかける。
「ご献杯です」
「ありがとうございます」
カウンターのマスターも、少しだけ頭を下げた。女将が老女のグラスに酒を注ごうとすると、娘がそれを止めた。
「母はそんなに飲みませんので、私のを分けますから」
扉が開くからからという音が聞こえた。女将が音のほうを見ると、暖簾が風に揺れていた。暖簾を揺らす風の音の代わりに、表の道を走る車の音が聞こえてきた。
「いらっしゃい、おおシゲさん」
マスターが声をかけたので、女将は娘のグラスに酒瓶を傾けた。瓶の口からとくとくとく、と酒が落ちてゆく。そしてグラスからあふれた酒が升の中を上り、升の朱色を透過させながら、照明の光を映している。女将は酒をいつもより少し多く、升の肩口ほどまで注いだ。そして「ごゆっくり」と言って、店の奥に戻った。
「やっぱ雪が降ると寒いねえ」
シゲさんという男は、カウンターに座りながらマスターに話しかけた。女将は箸袋と小皿などを持って、暖簾を出てきた。
「シゲさん、こんばんは。寒いですねえ。どうします?いつものセット?」
そう言いながら、男の前のカウンターに席をしつらえる。
「ええとね、じゃ、今日はボトルとお湯割りセットにして」
「シゲさん、お湯割りセット、寒いですもんね」
女将はオーダーをコールしたのか、シゲさんに話しかけたのか。そう言って再び店の奥に行く。そして柱に掛けた伝票に『ギンジョウ 冷 1』と書いた。
小上がりでは、娘が母のグラスを取り、娘はしずくの落ちるグラスを升から上げてそこから酒を注いだ。四分ほどのグラスを母親に差し出すと、しわの目立つ白い手がそれを受け取った。
「お父さんも」
そう言って写真立てを見た。老細君も同じようにする。二人は目を閉じて、グラスを少し持ち上げた。そして同時に一口。
 カウンターの男は大ぶりの湯呑のような陶器の酒器に焼酎を注ぎ、その次にポットを傾けた。湯を注がれた酒器から立ち上がる湯気は、その本当の温度よりも温かそうに見える。
「マスター、寒いしさ、腹減っちゃったよ。このアラ煮を暖めてよ、大至急ね!」
男はお湯割りの酒器を持った手で、カウンターの大皿を指示した。よほど腹が減っているのか、寒さで温かいものが恋しいのか。でもこの男はいつもこの調子なのだ。マスターは「アラ煮いっちょ、大至急でぇす」
威勢よく楽し気に答えて、カウンターの上の大皿にのせていた杓子で、身と根菜を鍋に取り分けた。そして別の器に入れておいたつゆをその鍋に足して、コンロにかける。火をつけながら、もう片方の手を伸ばして換気扇を回した。換気扇が店の中の空気を吐き出すかわりに、冷たいものがどこかから入ってくる。女将は足元にかすかな冷気を感じた。カウンターを背にしたマスターは、鍋を揺らしながらシゲさんに声をかける。
「道、大丈夫でした?」
「ん、うん、大したことなかったよ。予報じゃこっちも大雪だとか言っていたけれど、いつものあれだね」
このあたりで雪が降りそうになると、天気予報はいつも大げさに騒ぎ立てる。晴れ雨もしくは雪の天気をわりあいと正確に予報できても、大雪小雪の的中率はそれほど高くない。もっとも、小雪の予報の日が大雪になったこともない。だからみんな、雪は大げさに予報していると思っている。
「まぁ寒いことにかわりはないね」
マスターが、あははと笑って、火が通った料理を器に盛った。そして換気扇を止めた。でも、換気扇に吸い上げられた煮物の香りと熱のかわりに忍び込んできた冷気は、女将の足元にまとわりついてたままだ。
 小上がりの卓、酒の注がれた三つのグラス。一つは老人の写真の前。一つはあまり減っていないビールグラスの横、まだ一口二口飲めるくらいはあるだろう。そしてもう一つは、升の中に残った酒を注ぎ足されたが、升の飲み口からは残りの嵩が見えない。すし下駄にはまだ刺身が残っている。娘は、細く切りそろえられた白い身の二、三切れを取り、これにわさび醤油につけて口へ運ぶ。そして升の中のグラスを飲んだ。しかし老細君の箸は進まない。
「どうしたの?」
娘が聞いた。
「温かいものも欲しい」
母は娘に言った。小上がり席にも時々寒さが漂ってくる。娘は箸をおいて、カウンターのほうを見る。そちらを見たから、ということではないだろうが、醤油とみりんの香り、魚を煮たような香りがした。そしてカウンターの上の大皿と、その手前の客の器が目に入った。
「そうね、煮物でも頼む?私、もうちょっと飲みたいな」
シゲさんに出したアラ煮が仕事をしてくれた。旨味の効いた香りは、酒飲みの腹をくすぐる。たとえ飲みなれてない様子でも、間違いなくまるさんの血を引いている。
「あのお芋を温めてもらいましょう」
今度は母親が口を開いた。娘は女将を呼んで大皿の里芋を注文したが、お酒は少し考えるから、と言った。
「里芋いっちょ、ありがとうございます」
女将がカウンターに注文を通すと、マスターが威勢よくコールした。女将はそれを伝票に書き入れる。マスターは仕事にかかった。鍋には少し多めにつゆを入れ、大皿の里芋を取り分ける。今日の里芋は小さい。そして鍋をコンロにかけ、料理に火を入れる。芋を崩さないように、穏やかに穏やかに。換気扇を回すと、やはり少しひんやりとした。そして燗器からの湯気が少し大きくなったようだ。
 しばらくメニューを見ていた娘は顔を上げて、そばで待っていた女将と目を合わせ、言った。
「熱燗ください」
「お好み、ございますか?」
一言に「熱燗」といっても、客によってその好みは様々である。「熱燗」とは、酒器がやや熱いと感じられるくらいに温めた燗酒のことだが、そんなことを正確に知っている客のほうが少ない。もし「とびきり燗」とか「日向燗」と注文を受ければ、作り手は心して温める。しかし普通の人でも知っている「熱燗」や「ぬる燗」と言われたときは、本当に「熱燗」や「ぬる燗」の注文なのかを確かめることにしている。
「?」
案の定、である。娘は女将に何を聞かれているか、わからなかった。
「お酒は熱めにつけましょうか、それとも温かめぐらいにしておきますか?」
ちょっと間をおいて娘が言った。
「熱燗で、ちょっと熱めに」
女将も居酒屋の女房になる前は、この女の人と同じようなものだった。夫と一緒に商売を始め、酒の事を少し教えてもらってからは、もどかしいと思いながらもこんなようすで客の好みを聞いている。「熱燗を熱め」なら、とびきり燗になってしまうが、人肌だの、とび燗だの、この母娘は酒にとってはみな「熱燗」なのだ。まるさんが好きだった上燗よりも少しだけ熱いぐらい、普通の熱燗でよいだろう。
「一番様、熱燗いっちょです」
「ありがとうございます」
マスターは背を向けながら掛け声をかけた。その手元の鍋では、温まった里芋がちょうどよい具合につゆをまとっている。それを大き目の器に盛り、さやいんげんを添えた。
「はいよ」
と言って湯気の立つ器をカウンターの上に乗せた。
「シゲさん、ちょっと横をごめんね」
女将がそう断ると、カウンターの男は「ん、」と言って箸を持ったまま、体を左側にそらした。女将はカウンターの上の器を両手で取り上げて、小上がりへ運んだ。マスターがコンロの火を落とし、換気扇を止めると、客席の足元の冷気の流れも止まった。
「里芋煮です。お待たせしました」
卓の上に甘い香りが乗せられた。
マスターは「お待たせしました」と言いながら、ちろりに酒を注ぎ、それを酒燗器に浸す。そして湯飲みのような猪口を棚からおろして、カウンターの内側に置くと、酒燗器の別のちろりで温めておいた湯を注いだ。まるで茶を点てるように、滑らかに無駄なく仕事をする。
 小上がりの卓では、細君が小さな里芋を箸で二つに割り、ほぐほぐとほおばった。そしてグラスを少しだけ傾けて、果実のような香りの酒を飲んだ。
 酒燗器の酒はもう十分に温まっただろう。マスターはちろりの取っ手を持ち上げて、湯飲みのような大きめの猪口に九分ほど熱燗の酒を注いだ。その様子を見ていた女将がカウンターに近づくと、マスターも阿吽の呼吸で、猪口をカウンターの上の盆に乗せた。大きく揺れればこぼれてしまうような酒を、女将は小上がりの卓まで器用に運んだ。
「お待たせしました。熱燗です」
娘は「ありがとう」と言って、卓に置かれた猪口を見た。うっすらと上る湯気はそれだけで温かい。両手の指先で酒器の熱さを恐る恐る探りながら、持ち上げようとした。熱燗とはいえ、酒器を持てないほど熱いものではない。口からお迎えをする、とはよく言ったもので、持ち上げる手とそれを待ちきれない口が、中間点で猪口を出迎えた。熱い茶やコーヒーほどではない熱さが、娘の唇に伝わった。そして舌を濡らした酒は、口の中ですべてが揮発してしまったのか、というくらい大きく広く香りを振りまいた。酒に詳しくないものでも、いや、詳しくないものほどなのかもしれないが、燗をした酒の香りの広がりに驚くものだ。娘は日本酒をこれほどおいしいと思ったことがなかった。
「ああ、おいしい」
ふうと息を吐いて、笑顔になった。その笑顔につられて、老細君も笑顔になった。
「お芋、美味しいわよ」
娘に里芋をすすめた。娘は「ふうん」と言って、酒器を置いて箸を取り、器の中の小さめの芋を食べた。ちょうど一口分、女性の一口には少しだけ大きかったかもしれない。口の中でかみ砕くことができるちょうどよい感覚と、その温かい味をかみしめる。芋の中まで十分に味がしみ込んでいて、一つ噛むたびにたれのうまみと芋の甘みが体中に伝播してゆくようだった。
「んん、」
娘はそう言って酒器をもう一度傾けて、酒を一口飲んだ。
老細君もその様子に誘われたのだろうか、小さなグラスを手に取ろうとした。でもグラスの酒はほとんど残っていなかった。ほんのひとなめの残りの酒を、グラスを少し大きく傾けて飲み干した。
「私ももうすこし、飲もうかしら」
娘が自分の酒器を母に差し出す。そこから湧き上がる湯気を見て、言う。
「そんなに熱くなくていいのよ」
娘は「ふうん」と言って差し出した猪口を手元に戻した。
「ぬるめのをもらう?」
そういうと、母親は小さく頷いた。娘は少し体を伸ばし、数歩向こうにいる女将に声をかけた。
「ぬるめの熱燗ってできますか」
「はあい、ありがとうございます。ちょっとぬるめくらいにしますか?」
女将の問いかけに、娘はちらと母を見ると、頷いていたので、娘も女将に頷いた。
「一番さん、上燗いっちょです」
そう言った女将も「上燗、ありがとうございます」といったマスターも、少しだけまるさんの顔を思い浮かべた。その時、小上がりから年老いた小さな声が聞こえた。
「半分でいいわよ」
小上がりの卓に立てられた、小さな写真の中の顔が、少しだけ微笑んでいるように見えた。
 女将は心の中で手を合わせながら、伝票に「ジョウカン 一」と書く。卓の母娘は温かい芋をつつく。カウンターの男は細長く四つに折った新聞を、かさりとめくる。店主はカウンターの誰も座っていない席を見ながら、酒燗器を気に掛ける。外は寒い風が吹く。酒と肴がいろいろな人を温める夜。