Sweet Heaven Photograph & Words.
 晴れた日の遅い午後、傾きかけた陽光は、温かみのある色を帯びてきた。村を見渡す小さな丘の上。遠くまで続く黄金色の畑を、柔らかにそよぐ風が、実りの季節のたわわな穂を波打たせながら、通り過ぎては近づき、そしてまた通り過ぎてゆく。
 「あっ」
彼はしまったと思った。いつも歩きなれた道で、何を踏みつけて滑ってしまったようだ。転倒したかのかどうかわからない。たぶんひっくり返っているだろう。自分の情けない姿がわかるまでに、だいぶ時間がかかっているようだ。とんでもない目に合うとき、たとえば上から何かが落ちてくるときや、出合頭にひとやなにかとぶつかるときに、その事件の一部始終がゆっくりと見えるような、そんな状態だ。足は地面から離れて体が宙に浮きあがり、背中が地面に落ちてゆきつつある。下手をすると後頭部を打つことになるだろう。これは気を付けないとまずいことになる。両手を振り上げたような気もするが、大きく開いているであろう両腕と、左右それぞれの方向にのびる両手の五本の指は、空を掴むだけで、直後に彼を襲うことになる『まずいこと』を防げそうにない。
 随分と長い間、落下するような感覚が続いていた。何かが違うと思いながらも彼の視覚は、彼を取り巻く周囲の景色をなぜか冷静に見ている。正面に見えていた黄金色の海が、急に視界の下のほうに落ちてゆき、やがて視野一杯に空が見えた。そして左右の景色が目に入り始めると、そこからすべてが上のほうに飛びあがってゆく。はじめはほどんと空しか見えなかった。彼を取り囲んでいる景色は、視野の多くを占める空の縁取りとして見えているだけだった。すべてが上のほうに飛びあがってゆくと、縁取りが残像のように視野の周囲を駆け上がり、やがて視界を埋め尽くすように、空の色を侵食していった。
 「ああ」
これはひどくひっくり返っているから、まちがいなくえらいことになる。彼は確信した。それでもまだ落下し続けた。縁取りは広がり続けた。視野の多くを占めていた空は、小穴から差し込む小さな光点となり、どんどん遠ざかってゆく。その光が弱く小さくなるにつれて、周囲の景色が輝きを増した。空だったはずの光は、周囲のたくさんの輝きの中に紛れてしまったので、彼は自分がどこへ落ちて行っているのか、何もかわからなくなった。数多の光は、彼の周囲を通り過ぎながら数を増してゆく。残像として流れ続ける視界は、数えきれないほどの光の粒に満ち、そこから真っすぐにのびる光条の一筋一筋が、彼の身体を照らしては通り過ぎてゆく。視界を通り過ぎる光、腕を照らす光条、体を照らす光の束。掌が照らされ、また影になり、上から迫る光はいつの間にか下へと消えてゆく。通り過ぎてゆく何本もの光条は、常に彼の身体のどこかを照らし出す。一つが通り過ぎれば、十が照らし、十が通り過ぎては百が照らし、百が過ぎれば千が照らす。光は色や大きさや強さを変えながら、やがて彼の全身を包み込むように照らし出した。彼が落下し続けているのか、それともあたりの光が飛び去ってるのか、それともこの光が揺らいでいるのか。もうわからない。ゆらゆらとうつろう光が、流れるなにかを介して彼を包み込んでいるようで、水の中から見上げた水面の向こうのぼんやりした景色にも見える。
 川にでも落ちたのだろうか。
 水の中から空を見上げれば、あたりの景色と差し込む光が、水の中で複雑に屈折してしまう。そこから見ているものの形がはっきりしなくても、何を見ているのか何となくはわかる。そしてその状態に慣れてくれば、案外と細かなものまで見分けられるようになる。彼の目は、彼がおかれている今の状況に慣れてきたのだろう、流れの向こう側になにが見えていることに気が付いた。
 濁流では抗えない力の中で流されるしかないけれど、ゆっくりとした流れの中ならば、川が流れているという状況を理解できれば、流れに逆らうことも、流れに乗ってゆくこともできる。落ち続けて飲み込まれてゆくような状況の中で、彼の体感が流れを捕まえた。人間にはきっと、悪い状況に陥った時に何かが見える方向に進んでゆく習性が備わっているのだろう。彼はいつのまにかまっすぐに立って、正面を見ていた。彼の身体と目は本能的に状況に適応した。けれど彼の理解がそれに追いつかない。自分は今どういう状態なのだろう。あたりは相変わらず揺らめいている。揺らめいている景気は、野原や山谷、森、川、海、浜、そして青空と夕空。いろいろな場所が連続して一つの景色の中に見えている。描かれた絵のようにではなく、揺らめいている水の中に景色が広がっているようだ。彼の足元からは、遠くまで広がる透明な湖が見えていて、湖の先には真っ青な海がある。海の向こうの青空のかなたには、大きな島影が霞んで見え、夕暮れの影が延びる島の森には雨が降っていた。森の向こうの畑では、刈り入れ前の穂が波を打ち、その横を川が流れ、やがて湖に注ぐ。その湖の周りは青空との湖畔が見えた。湖畔では誰かがこちらに背を向けて立っている。立ったまま、あたりを見回している。背中を向けているけれど、困惑の色を浮かべた視線が、何かを追っている様子が見えた。
 彼の理性はそれが自分であることに気が付いた。見たことなどない自分の背中を、自分だと気が付いたのは、背中と同時に自分の顔が見えたからだ。自分は今こうしてここに立っている。見たことがあるような景色の中に立っている。そっと両腕を上げ、手のひらを見る。腕を上げる必要などなかったかもしれない。揺らめきの中には、そうしている自分の姿が見えていた。ここはどこなのだろう。行かなければならないのに。彼は何かを思い出しかけた。
 「あんた、こっちへきたばかりか」
彼の意識の外から誰かが声をかけてきた。姿は見えないが、それは近くから聞こえた。彼が別の方向を見ると、彼と同じくらいの年齢の男が立っていた。丘を登る小道の先。その男の背後、見渡す景色に広がる畑と、その向こうに集落の家並が見える。家並の向こうには見たことがある山々が連なっていた。その景色の中に立つ男は、彼と同じくらいの年齢なのに、見方によっては子供のようにも見えるし、若者のようにも老人のようにも見える。そして老人の好むような格好に見えるし、子供ような格好にも見える。見える姿だけではなくて、聞えてきた声にも老人のような口調、子供のような声、色々な聞こえ方をした。男が集落から離れた畑の道をこちらに進んで来るあいだに、山や野原を越えたようにも川を渡ったようにも見えた。
「あんた、やっぱり渡ってきたばかりのようだね」
無理もないさと男は言いながら、彼のそばに近づいた。丘に登る道の途中、景色の開けた広場のようなところ。大きな木の下の大きな石がある。男はその石に腰掛けて、話をつづけた。
「あの世から来たばかりのやつは、まずこの世の景色に驚くもんさ」
男は犬でも呼ぶように、遠くを見て手招きをしながら、口笛を吹いた。彼には犬が見えなかったが、遠くからじゃれるような鳴き声が聞こえる。
「あの世から来る前に、明るい野原が見えただろ。そこがこちら側だよ」
あの世からこちらに渡ってきた?どこかに落ちて飲み込まれ、泳いでいると思ったら、ここにいた。野原などなかった。彼はそう思った。あれは渡ってきたのではなく、わけの分からないところへ落ちてしまったというようなものだ。その時の感覚を思い出すと、彼が見ている景色が、もうあの時ほど揺らいでいないことに気が付いた。そして横に座っている男の顔を見た。男は相変わらずどこかを見て手招きしながら、話をつづけた。
「なに、そのうち慣れるさ。知り合いにも会うだろう。でもあんたは若かったようだから、しばらくのあいだはこっちで顔見知りを作ったほうがよいかもしれない」
川の向こうの、土手か盛り土のような高台を、大きな犬が駆けてゆく。姿が遠ざかるにつれて鳴き声が大きくなり、息遣いさえも耳に入るようになった。そして犬は視界から消えると、湖の対岸あたりから男に駆け寄ってきたように見えた。「よしよし」といった様子で犬をなでる男。彼は湖畔でもあり丘の中腹でもあるような場所で、方向を見失うような感覚に戸惑っていた。呆然と立つ彼を見て、言った。
「渡ってきてどれくらいになる」
彼は答えられなかった。その様子に、男は合点がいったという表情で笑った。
「驚く前に何が何やらってところかね」
「そうです」
彼の表情は硬かった。男は犬をなでながら彼を見た。
「すぐに慣れるさ」
 彼に見えている風景は、間違いなく住み慣れた土地の景色だった。この丘も川も畑も森も家並みも、遠くに見える海や島も、すべて彼の知っている場所だ。けれど、彼に見えているそれらは、丘の上からでさえ一望できるはずはなく、しかも彼はどこの湖畔に立ってる。なのに丘の中腹の広場に座る男を間近に見ながら話をし、そこからの景色を見ている。
 彼は男の近くに行き、訊ねた。
「ここはどこですか」
男は犬をあやしながら答えた。
「あんたの住んでいるところだよ」
なんとなくわかっていたが、何かが違う。
「あんたはこっちへ渡ってきたんだよ。あんたがずっと見ていたのが向こう岸のあの世。もしかしたら、こちら側、向こう側ではなくて、湖の中と外かもしれない。ここからはあの世を水面越しに内側から眺めているようなもので、こんなようすに見えるもんだ」
 犬は散歩を続けたがっている。男は腰を上げて、集落の家並みが見える畑の向こう側を見た。そして犬に微笑みかけて歩き出した。「慣れるまではいつも通りにやればいい」
そう言って丘の散歩道を歩いて行った。彼はしばらく男の後ろ姿を見ていた。男の姿が小さくなり、木立の陰に消えた。彼はそれを見送り、振り向いて畑や集落を見遣る。この道を降りてゆけば畑に戻ることができる。畑を通り過ぎれば村だ。彼は丘を下ることにした。傾きつつある陽が、道沿いに木々の長い影を落とし、あたりが少しずつ少しずつ赤くなってゆく。ゆるやかな坂道を降りてゆく。湖を横目に、そして道沿いの木々を横目に、延々と続く湖畔の道を降りてゆく。足元に揺らめく湖の向こうには、遠くの景色が見えている。手前は夕暮れているが、その先には青空が見える。青空の向こうは曇り空が続いている。曇り空はやがて夜になり、夜空には星があった。星空の下のもっと遠くには、かすかな夜明けが真っすぐな水平線を描いている。湖は彼を囲み、湖の向こうは広く遠い。そしてそれと同じように、彼が見る先には、遠くの山々まで続く大地に、幾重にも連なる丘陵の大波が続き、その上にざまざまな色の畑が漂い、風にたなびく穂が小波をさざめかせていた。その畑のあいだを貫く何本かの真っすぐな道に沿って、点々と家屋が建つ。家々の近くには背の高い木々があり、木々の長い影が丘の上の道に連なっている。彼は集落に続く道を歩いている。丘を降りると、湖の向こうにも畑が見えてきた。畑は夕暮れ。丘陵の向こうは曇り空と夜空なっていた。湖は彼の足元から天高くまで、はるか遠くの景色まで見通せるほどひろがっている。そこには周りの景色も映りこんでいるようだ。眼に映る眺めと、それと同じように彼を取り囲む投影された景色の中、彼は湖畔の道と集落への道を歩く。
 集落のちかく、暮し慣れた集落。日暮れ街角を映しこんだ湖が広がっていた。目の前の街角と、湖の中の街角は同じものなのか。いくつめかの角を折れ、しばらく進んだ先の生垣を曲がる。普段どおりの道を歩き、普段通りに我が家の前に立つ。扉を開けて土間へ入る。物音は聞こえない。家族はいないようだ。靴を脱ぎ、廊下を進んで居間に入る。西向きの窓からうっすらと茜色が見える。彼はいつもの自分の場所に座った。部屋の中には誰もないが、様子はいつもと変わらない。しかし水面の向こうに見える部屋には、妻と息子がそこに座っていた。家に入っても家族の気配を感じなかった。二人がまるで突然目の前に現れたようで、彼は少し驚いた。息子は転寝しているのか、目を閉じたまま、舟を漕いでいる。
「なんだ、いるんじゃないか」
思わず声に出した。彼の妻はふと顔を上げてこちらを見た。けれど、彼女が彼に気づいた様子はない。彼女はあたりをみまわし、そして立ち上がり、部屋を出て行ってしまった。彼は視線で妻の姿を追った。視線の先には誰もない居間が見えた。そこには息子の姿はない。彼は立ち上がって、水面の向こうを見た。そしてそこに近づく。彼が水面に近づいてもその距離は変わらない。水面は手を伸ばせば届きそうなところにあるのに、触れることはできない。静かに揺らぐ壁の中では、目の前で転寝する息子と、家の外へ出る妻の姿が見えた。集落は光を失い、黄昏が闇に近づいている。妻は遠くの丘を見ながら立っている。
「ここにいるぞ」
そう言っても二人には全く聞こえてないようだ。そして水面の向こうから聞こえてくるはずの町の音も、目の前の息子の寝息も聞こえてこない。ただ見えているだけ。彼は今自分がいるこの場所と、水面の向こうは別の世界だということが分かり、どうしようもなく悲しくなった。
 そういうことか。彼はその夜ずっと、家族に募る焦燥を見ていた。

 夜が明けると集落は騒ぎになったが、彼にはどうしようもない。泣き続ける妻と、口をつぐんだままの息子の姿に、申しわけない気持ちと、悲しさが繰り返しこみあげてくる。そして家族の暮らしも心配でならなかった。集落の若者が走ってきた。その慌てようと、身振りで伝えたいことは察しが付く。若者は、彼の家を取り囲んでいた数人とともに、今走ってきた道を折り返していった。息子もそれに続こうとしたが、引き止められて母のそばに戻り、皆が走って行くほうを振り返った。彼は目を伏せた。もうその先を見たくなかった。
 妻は崩れ落ち、地に伏して肩を震わせている。息子は立ちながら顔を伏せた。強く握りしめた拳が震える。震えは体中に伝わり、やがて大きくなった。零れ落ちるものが一滴一滴、乾いた土の色を変えた。
 彼は何もできない自分が情けなくなった。水面が揺れる。目の前に広がる湖の向こうを見ていられなくなって、揺らいでない世界に目を向けた。こちらも同じ景色が見えているのに、誰もいない、何も起きていない。穏やかに晴れた朝、風の音が聞こえるのに、誰の声も聞こえない。それは、慟哭渦巻きながらも、むなしく何も聞こえない残酷な嗚咽の静けさだった。
 彼は丘へ行った。けっして湖畔の先を見ないように、揺らめく水面から目を背けて、ただただ歩いた。誰かに会いたかった。
 風の向こうに犬の鳴き声が聞こえる。犬を連れた男が坂道を登ってきた。男は彼を見つけるや、少し苦い顔になった。どうやら様子を知っているらしい。
 彼は見てきたことを話した。男は散歩をしたがる犬のごまかしながら、彼の話に付き合ってくれた。
 どうしようもないことのなのだろうとわかっていても、大切なものを残してきてしまったのだから、どうにかしたくなる。
「何とかならないものでしょうか?」
しばらく間をおいて答えた。
「ならんだろうね、こればっかりは」
二人は視線を合わせずに話をした。間近にあるものを見ないように、遠くだけに目を向けた。彼の視線の先に見える畑では、幾重もの穂波が風にそよいでいる。湖の向こうへも、同じ風がゆっくりと吹き抜けてゆくようだ。彼はそれを見て間近の刈り入れのことが気になった。きっとしばらくは村の人や親せきが手伝ってくれるだろう。私も同じことをしてきた。だから当座の暮らしは何とかなると思う。でもそのあとはどうなる?息子はまだ若かすぎる。かみさんは一通りのことはできるだろうが、ふたりでは手が回らない。彼は足元の湖畔から広がる湖の中、遠くの大地だけを見渡して気をもんだ。
「もうすぐ刈り入れかね」
彼は「ええ」と応じた。そして思い出した。水面に広がる暖かな色、それはこちらへ来てしまう前に見た景色だ。連なる丘陵の起伏を越えて、遠くの山脈まで続くように広がる色とりどりの畑。どの色も日に日に濃くなり、実りの喜びで満ちている。霞の少ない季節、この丘の上からは、遥か東の岬に聳える峰々まで見渡すことができる。峰々の頂は、万年雪をかぶったその頂上から、裾野に広がる麓の森の近くまで白い雪が見えた。そして日差し暖かな午後の風には、少しだけ冬の冷気を感じた。今年は雪が早く降るだろう。
「そうだ」
彼は湖の中に広がる空をたどって、遠い東の海を見た。海の向こうまで突き出した岬には、高い山脈がつらなっている。少し霞んだ裾野の上には、霞や雲がかかっていない真っ白な頂上が見えていた。いつもこの季節にはこの丘に登り、あの山々の雪の具合で収穫のころ合いを見計らっていた。白が目立ち始めたら、刈り入れの支度をしなければならなかった。そしてもどかしい気持ちがこみ上げてきた。
「何とかしなければならんのです」
男はそれ答えてくれなかった。犬の息遣いだけが聞こえる。
「おかしなことにこだわらんほうがいい」
「どういうことですか?」
「あの世に帰ろうなんて考えないこった」
昨夕のことを思い出す。目の前に見えているのに、まったく触れることのできない水の中。いっそ何も見えなかったほうが諦めがついただろうか。でも見えなかったとしても、何とかして向こうの様子を見ようとしていたかもしれない。思いがあるから何とかしたくなってしまう。むごいことだ。
「ひどいもんですね、この世は」
「どういうことかね?」
「ぜんぶ見えていて、やらなければならないこともわかっているのに、何もできない」
彼はそう言って目を閉じた。目を閉じれば何も見えなくなるけれど、忘れることはできない。なんとかしなければならないのに、どうしようもないことに変わりはない。
「人のいるところは、どこだってそんなものさ」
「ここは天国ですか?地獄ですか?」
「そんなことはわからんよ。あの世だってそうだろ。欲しいものを手に入ても、また別のものもほしくなってしまう。そんな繰り返しさ。追い回せば追い回すほど、追い回されちまう」
男はしばし黙った。そして彼の見ている水面の向こうを見つめて言った。
「わたしゃ向こうではずいぶん強引なこともやったから、嫌われてもいたし、恨まれてもいただろう。こっちに来てからもしばらくは向こうに帰ろうとして、いろいろ試してみたさ。でもそんなことは無駄だとわかってあきらめた。そしたらこいつが俺を見つけてくれたのさ」
男は犬のほうを見た。その手はずっと犬を撫でていたようだ。
「あの世で穏やかに暮らしていたのに、こっちに来てからも向こうにこだわり続けて、喘いでいるやつだっている」
彼は少し安心したような、そうでもないような気分になった。それはいつも感じる普通の気持ちだった。
「あの世では思いなんかは通じやしない。思っているだけで通じることもあるかもしれんが、仕草や言葉にそれがにじみ出て、はじめて思いが通じるものさ。この世からあの世の連中に何かをしようとしても、どうにもならないんだよ。思うことしかできん。でも」
男はいったん言葉を切った。そして彼のほうを一瞬だけ見た。
「でもその思いがなぜか通じてるようにみえることがあるんだ。虫の知らせというのか、胸騒ぎというのか、そんなもんかもしらんがそう見えることがある」
そういって立ち上がると、彼の肩を軽くたたいて立ち去った。
 彼はしばらくいろいろなこと考えた。そして家に帰ろうと、丘を途中まで下った。しかしその途中、水面の中に幾人もが丘から何かを運びおろしている様子が見えた。そこで彼は足を止めた。見えてしまうのがつらい。
 彼はどのくらいの時間をそこで過ごしただろう。何度か夕暮れと朝焼けを見た。何度か男が近くを通って行った。男はいつも何も言わずに、彼の近くをそっと通り過ぎていった。湖の向こう側に見える遠くの峰々は、白さを増している。複雑な気持ちだけが膨れ上がる。こんな思いをし続けるなんて、この世は地獄かもしれない。もどかしさばかりが募ってゆく。見たくはない気持ちと、何とかしたいという気持ちのはざまで、彼は村へ帰ることにした。
 湖いっぱいに広がる黄金色の海。喜びの収穫に、活気あふれる圃場が恨めしくも見えてくる。畑を抜け集落に戻り家の敷地の入ると、水面の向こうには、家族や親せきがいた。近隣の人たちが何かしらの手伝をしてくれている。しかしそれは毎年のこの季節の様子とは違う。彼は妻を見ながら、豊かな黄金色に輝く畑のことを考えた。このまま刈り入れをしないうちに冬が来てしまたら、せっかくの実りを無駄にしてしまう。刈り入れれば冬を越すことができる。そして種をまき、春には苗を植えれば、命をつなぐことができる。畑へ行こう。俯いていた彼女が立ち上がった。目は涙に潤んだまま肩を落としてはいたが、歩き出した。彼女の後について、何人かが立ち上がった。彼女は大勢の人の前に立つと、一堂に頭を下げた。真っ赤な目を瞬かせて、小刻みに震える唇から一言一言ゆっくりと声を絞り出し、みなに何かを話している。すると息子が席を立ち、その場を離れた。そして喪を脱ぎ捨て、力強く鎌を握り、みなの前に戻り母の横に立った。彼は驚いて水面に向かって手を伸ばしかけたが、その手を止めた。若い我が子の顔に、希望に満ちた力を見てとったのだ。鎌を握ったまま、母の横に立ち一堂に頭を下げてから話を始めた。ゆらめく水面の向こうでは、どのような声が聞こえているかわならないけれど、そこに歩き出した家族の姿を見た。
 これは幻かもしれない。夢かもしれない。けれど永遠には続かないと思う。きっといつかはみなもこの世にやってくる。その時まで幸せであってほしい。息子もいつかは家族を持つだろう。あの世でもこの世でも家族に寄り添うだろう。そうあってほしい。
 村の人、家族親戚が野良着で畑に出ている。今年もまあまあの実りだ。でも急がないと冬がやってくる。そんなことはみなわかっているだろう。だからこうして自分の家族を手伝ってくれているのだ。彼は畔に立ち、次々と収穫されてゆく畑を見ていた。見ていることしかできないことにもどかしさも感じたけれど、曇った気持ちはもうない。水面の向こうはもうすぐ日が暮れる。
「やってますな」
犬を連れた男が近づいてきた。男は湖の向こうを見ながら微笑んでいた。そして彼も自分も微笑んでいることに気が付いた。
「今日だけでは終わりそうにありません」
「なにより、間に合ってよかったですな」
彼は感謝を伝えたかったが、「ええ」としか言葉が出なかった。男の足元で犬が鼻を鳴らしている。
「かみさんが待っている」
男はそういって、犬を連れて集落のほうへ歩いて行った。彼は男の後姿を見ながら少し頭を下げた。
 そういえば、昔はうちでも犬を飼っていたとおふくろが言っていた。若い頃に子供がいなかった親父は、犬をとてもかわいがっていたらしい。彼はそんなことを思い出した。その犬は彼が生まれる前に死んでしまったので、彼はその姿を見たことがない。またその親父は、がむしゃらに働いて俺が小さい頃に亡くなってしまった、ということだけ覚えていた。そうだ、親父たちもこっちにいるだろう。きっと親父もおふくろも今頃、犬をかわいがりながら俺たちや畑のことを見てくれているはずだ。
「あっ」
彼は目を大きくした。そうだ明日にでも聞いてみよう。彼はそう思って顔を上げた。畔の向こうで犬を連れた男が手を振っていた。