Sweet Heaven Photograph & Words.
 「旅」という表題はなんとも抽象的だが、時間を得た私が旅について考えたことをつらつらと書いてみただけのことである。
 長年勤めてきた情報産業関連の会社を辞めた。次の仕事を決めていなかったので、しばらく時間ができる見込みを立てていた。
 当たり前のことだが会社勤めをしていると、生活の時間軸を会社の勤務に合わせなくてはならない。会社勤めをしていた頃は、朝の5時に起床して6時過ぎには電車に乗り、7時前に新宿に着き、朝食を摂ってから7時半ごろに出社する生活をしていた。9時始業なのだから、その1時間半も前に出勤する必要はない。けれど通勤の混雑をできるだけ避けたい思いが強かったので、若い頃からこのような生活をしていた。
 早朝出勤しているから、必ず早く帰宅できるはずもなく、残業があればほかの人と同じように夜遅くまで仕事をしていた。とはいえ、私の平均の残業時間はほかの人よりもはるかに少なかったので、早朝出勤の効果がなかったわけではないと思う。日中帯にはいろいろな人から声をかけられたり、電話の応対をしたり、なにかと邪魔が入るので、仕事が途切れてしまうことが多い。けれど始業前のひとりの時間は、ほとんど邪魔が入らない。だから日中帯に比べると、おそらく数倍の効率で仕事を片付けることができていたように思う。ほかに人に言わせれば、始業前は残業時間にならないうえに、貴重な睡眠時間を削ることになるので、朝の電車の混雑を避けるための早起きなどもったいないらしい。私にしてみれば、朝の混雑を回避できるうえに、夕方に早く帰宅できる可能性が高まるのだから、早朝出勤のほうが幸せではないかと感じる。
 早朝出勤だの、早めの帰宅だの言っても、結局のところ会社の時間に何らかの形で拘束されていたことに変わりはない。もしかしたら多くの人は、情報産業関連の会社の社員について、比較的自由な勤務時間の中で、発想力や創造性を活用した仕事をしていると思われているかもしてない。実際にそのような会社も少なからず存在している。しかし多くの情報産業関連の仕事は、お客様の勤務時間に合わせて出勤し、お客様の退勤時間など関係なく、指示された作業を手順や規則に従って進めてゆくことが多い。大きな案件を出していただけるお客様は、省庁や銀行、証券会社、保険会社など。このようなお客様は時間や規則に大変厳しい。そして挑戦的で先進的、つまり実績がないために何らかの問題が発生する可能性が高いと考えられる技術よりも、過去に実績がある確実な技術を選択する傾向が強い。だから想像力を生かすことができる職場は意外と少ない。そして発想力よりも、過去の情報の焼き直しで仕事を進めることが多かった。当然だが納品物の品質について大変基準が高いうえに、納品物そのものだけでなく、品質や作業内容を証明するための文書も大変高い基準を設定している。
 私が社会人になったころは、日本の景気が極端に下降している時期で、のちに失われた20年などと言われた時代の始まりのころ。日本の経済は停滞していても、海外は発展を続けていたため、新しい技術、新しい手法で生産性をどんどん高めていた。輸出に依存していた国内の産業は、生き残りをかけて大胆な原価削減や効率化に邁進していて、情報関連産業もまた大きな波の中でもがいていた。そんな時代に、なのかそんな時代だからなのか、納品物の品質やそれが適切な作業手法で製造されたものなのかどうかの証明について、要求が高まりつつあった。この風潮を反映して、これら付属する文書や証明書のようなものについても、納品物と同じくらい水準を求められるようになっていった。文書を作成するという作業は大変手間がかかるもので、納品物の「おまけ」に付けることなどできない代物である。しかし当時の状況で、文書作成の対価をお支払いいただけることはほとんどなかった。ただでさえも、価格を下げてしのいでいたなかで、このような追加の作業は大きな打撃だったに違いない。そのためにこの頃は、勤務時間を計上しない残業が横行していた。しかも担当者を増やす余裕などないので、深夜残業を連続させていた職場が多かった。
 数年前のことだろうか、様々な作業の値引き交渉の中で、なんとも不可解な論法で文書作成の費用について商談している席に立ち会った記憶がある。作業の単価が高いので、内訳を出すようにとの要望があり、製造費用やら管理費用、そして文書作成費用の明細を提示した。しかし次の席では、文書は適正な作業において、作業の工程ごとに作成されるものであり、あえて費用を計上するものではない。よってこの費用を計上することは認められない、とのお客様からの指摘を受けた。その後どのような経緯でどのような見積に落ち着いたかはわからない。本来の発注者、受注者の関係ならば、受注者側から提示した正当な費用が発注者に認められなければ、商談はご破算になるか、作業の内容や品質を低くするか、受注者側の正当な企業努力により、費用を低廉化するかのいずれかである。この商談のことではないが、作業の内容は変更なく費用だけ値引いて受注することが少なくない。値引いた額を穴埋めするための、新技術の投入や効率化などの正当な企業努力をすることなく案件を進めたにもかかわらず、それなりの成果を残すことがある。「担当者全員の努力」と言ってしまえば美しい話かもしれない。労働集約型産業である情報関連産業において、この美しい話の実態として何が行われていたか、おおかた想像できることである。情報関連産業に従事する労働者の多くは、思い当たる経験があるのではないだろうか?
 このような話は作業時間が長くなる一つの例としても、残業が常態化し感覚が麻痺してしまうと、自分たちがいかに仕事中心で暮らしているかを意識しなくなる。私の場合はほかの人と比べれば、はるかに安穏な日常だったかもしれないけれど、少し感覚が麻痺していたもののうちの一人だった。
 平日の時間の主軸が会社であることは、今の世の中で生きてゆく以上、仕方がない。夜8時に退勤し家路につき、自宅近くの居酒屋で一杯呑めば、帰宅は10時頃。あとは入浴して寝るだけだ。6時間の睡眠を確保して、翌朝5時、新しい1日が始まってしまう。待ちに待った週末といえども、休日の時間をすべて自分のものとして使いこともまたできない。生きてゆくために必要な行為の中で、どうしても休日に行わなくてはなくてはならないことも多い。月曜日からはまた仕事なのだから。それだけではない。週末には週末なりの付き合いが予定されていることもある。休日にもかかわらず朝3時に起きて、遥か遠方の芝の上を歩く日もあれば、全社の行事、部門の行事に駆り出されることもある。このような行事が、組織への忠誠心を測る指標とされる。やはり休日であっても、そのうちの半分は仕事や会社を主軸としてめぐっていた。
 仕事と生活の調和や労働形態の多様化への対応、古くは男女共同参画という言葉があるけれど、このようなお題目を唱えなくてはならない状況こそが、不均衡であることを示す証左だと思う。本日は残業禁止なので、定時に退社するようにとのお触れが出て、残業時間だけを計上しない運用になったり、女性管理職を増やさなくてはならないから、来年は彼女を管理職にする、といった噂話を耳にすることもあった。本来は何かを効率的になすために、手法や規則を活用するものである。にもかかわらず、何らかの原因で思考停止に陥り、規則や手法が目的化して、非効率を招き、それを解消するためにさらに規則を設けるといった悪循環の中で、人の時間や自由が失われてしまっている。報酬の本質が、労働の対価であることに変わりはない。安定した生活のために、労働力だけでなくそもそも報酬の目的である生活をも対価として支払ってきたかと思うと、なんとも虚しくなる。情報関連産業の多くは、かくも後進的で閉鎖的な職場が大多数を占めている。
 恨み言ばかり並べても仕方がない。一時とはいえ、安定した時間が自分のもとに戻ってきたのだから、これからしばらくは穏やかな時間を過ごすことを主軸に生きてゆこうと思う。
 在職中、穏やかな時間とは何かをはっきりと意識していたわけではない。退職を控えた時期あたりから、心の中から霞の向こうに何かが見えてきて、やがて退職日を決めたあたりから、いくつかが輪郭になり始めた。10年ほど前、友人から小笠原への旅の話を聞き、私も小笠原への旅を計画したことがあった。小笠原へ行く手段は船に限られている。また船便は1週間に1往復だけ、つまり1週間が1航海で、行き来するためには最低それだけの日程を確保しなくてはならない。夏休みや年末年始、5月の連休をうまく使えば実現できる日数とはいえ、休みの初日に出発して、最終日に帰京するといった日程となってしまうこともある。会社勤めのことを考えると、体力的になかなか厳しく、休みのうちに済ませなければならない所用を別の折に回さなくてはならなくなるなど、障りが大きい。またこのような時期は、日本中の誰しもが同じように旅に出かけるため、小笠原への船もご多聞に漏れず大変混雑する。そこでこの年は夏季休暇を取得する時期を少し遅らせたり、長い日程で休みを取ることをあらかじめ上司同僚に伝えるなど、仕事を調整しつつ、旅の計画を進めていた。しかし結局のところ、これらの根回しはかなわず、この年の小笠原への旅は立ち消えてしまった。
 実はこの話をしてくれた友人もまた、退職を間近に控えた有給休暇の消化期間で旅を実現させていた。この話に倣ったわけではないが、私も退職時期に合わせて小笠原へ旅することにした。
 小笠原は世界自然遺産であり、その自然環境の唯一性には一見の価値があると聞く。この島々が生まれてから、大きな陸地と一度も繋がったことがない、近づいたことがない「海洋島」であるため、生態系が独自の進化を遂げ、他の生物圏と異なる相を呈する。また地質的にも大変貴重で、地球上で小笠原でのみ観察できる地形をも有する。一般にはこのように理解されていると思うのだが、こんな学術的なことを言われても、その価値を一見して理解できる人は少ないはずだ。以前目にした新聞記事を思い出す。小笠原諸島が世界自然遺産に登録された直後、多くの観光客が父島に押し寄せた。その人たちの多くは自然環境に興味を持った人で十分に下調べをして島を訪ねていたようだが、中には小笠原への船会社に「船は1日何便出ているか」とか「飛行機はないのか」「高級旅館はないのか」など、明らかに不見識といえる問い合わせをする人が目立つようになった。また父島では「隣の島まで車を出して」という、もはや非常識な人まで現れた。この記事が本当かどうか定かではないが、物珍しさで島を訪ねる客が増えたことは間違いない。また島の自然を求めて旅する人も、小笠原の世界自然遺産たる価値を十分に正しく認識しているとは限らない。このことは小笠原に限ったことではない。日本国内の世界自然遺産は知床、白神山地、屋久島、そして小笠原の4か所、世界文化遺産は16か所が登録されている。わたしはこれまでに世界自然遺産のうち、屋久島以外の知床、白神山地、小笠原を、世界文化遺産のうちの10か所以上を訪ねたことがある。自然遺産であろうと、文化遺産であろうと、わたしなりに下調べをして旅することにしているのだが、それらの価値を十分に理解するのは難しい。それでも文化遺産であれば、対象物が明確なので、理解した心地になることができる。
 例えば那覇の首里城で係員に案内を頼めば、沖縄の歴史や琉球王朝の勃興、首里城の特徴や見どころなど、お国言葉を交えて短時間で教えてくれる。多くの観光客は首里城や琉球王朝について予備知識を持たないため、この一見網羅的で体系的な説明によって首里城を理解したと錯覚する。しかしこの説明は観光客への案内であって、首里城や沖縄の本質どころか、世界遺産に至る理由ですら解説しきれてない。丁寧な係員なら首里城だけでなく、この文化遺産を形成する一帯の城(ぐすく)や御嶽(うたき−祈りの霊場)についても案内するだろうが、この話と眼前に迫る輝く朱という圧倒的な視角情報とが重なり、短時間の見学だけで「琉球王国の城(ぐすく)及び関連遺産群」をすべて理解したという錯覚を生んでしまう。またなまじ歴史の授業で触れる機会の多かった古都の文化遺産は、乗り合いの旅で清水寺、銀閣寺、金閣寺、天竜寺などを回っただけで、東大寺と春日大社、唐招提寺と薬師寺を回っただけで、日本の王朝史を理解した心地になってしまう。
 一方自然遺産はこのように明確な理解に至ることが難しい。自然遺産にも象徴的な対象物が存在する。屋久島であれば屋久杉・縄文杉、知床であれば知床五湖や幾つかの滝などである。しかしこれらは世界遺産の滝だと言われれば、そうか世界遺産の滝かと思え、縄文杉は樹齢四千年ですと言われれば、さすが世界遺産、と唸ることができるだろう。けれど、立派な滝の写真を見せられて、どちらが世界遺産の滝ですか問われても、大きな杉の木の写真を見せられて、どちらが屋久杉ですか問われても、それなりに知床や屋久島に精通していなければ、きっと答えに窮するだろう。これらは象徴的であるが、その世界自然遺産たる中核ではない。小笠原諸島においては、小笠原の自然そのものが世界自然遺産である。南島の海蝕洞、森や木々、巻貝などのいくつかの写真を並べて、小笠原の自然遺産を選べと問われれば、人それぞれ異なる写真を選ぶだろう。自然遺産へ個人で旅した場合は案内所などで情報を得たり、団体旅行の場合は添乗員などから説明を受けることが多い。旅に出る前は、下調べの段で象徴的な対象物を思い浮かべていても、何らかの説明を受けるにしたがい、殊に一所懸命に話を聞けば聞くほど、明確な対象物の存在が薄らいでしまう。
 文化遺産の場合、象徴的な対象物が中核がとなってその文化を形成しているか、文化の醸成において対象物がしだいに象徴化されていったとの理解が成立する。一方自然遺産の象徴となる対象物は、本来的には他の対象物とほぼ同格の存在であり、何らかの偶然によって象徴的な体を成したにすぎず、世界遺産がその状況から形成した成果物(成果物という単語の用法に自信はないが)の一つに過ぎない。だから特定の何かを見ることを目的にその地を訪ねたとしても、自然遺産たる所以を知ることで、その地全体を一つの価値として捉えるに至ることとなる。
 私は当初南島の海蝕洞を見ることを主目的に、小笠原を訪ねる計画を立てていた。巻貝や植物などの独特な生物相についても少し勉強していったが、象徴的な存在と感じることができず、白い砂浜と青い海ばかりを思い浮かべていた。この海蝕洞は、ある映画の背景の原案となったとも言われており、大変特徴的な姿をしている。浅薄な知識しか持たない私にはとっては、小笠原を夢想するに最適な象徴となってくれた。父島に滞在できる数日間で何をするか、小笠原ではどこでどんな写真を撮ることができるか、朝日は何時にどの方向から昇り、夕日は何時にどこへ沈んでゆくか。それまでは小笠原諸島について、沖縄と同じような南の島のうち一つで、手つかずの自然が残る世界遺産の島としか認識していなかった。空港はないの?高級旅館はないの?と尋ねる人たちと比べれば、少しはまともな知識を持っているつもりだった。計画を立て、父島に関する情報が多くなるにつれて、海蝕洞の存在が次第に薄れていった。所詮私も限られた媒体から得た情報で空論を夢想していたに過ぎなかった。
 仕事を辞め、自由な時間が増えたことで、十分とは言えなくとも、決して効率的ではなかったとしても、ある程度の予備知識を得たうえで小笠原への旅に臨むことができた。一生のうちに何度も行くことができないかもしれない場所で、限られた時間の中で、できるだけ多くを見て感じたい。現地に行かずとも、誰とも言葉を交わさなくとも、十分な情報を意のままに得ることができる現代では、準備段階で日程のすべてを事細かに決めることができる。もちろん天気や交通事情など、不確定要素が残るとはいえ、回避策すらも計画できてしまう。実際に父島の埠頭に上陸した瞬間から、あらかじめ見ていた情報を、追体験することとなった。何時に原付を借りて、何分ぐらい海岸沿いの道を進み、どこの角を曲がりどのくらい進めば、目的の浜辺に出ることができるか。沿道ではどのような景色を望むことができるか、自動販売機がどこにあるか、その時間の浜辺では太陽はどの位置に見えるか。多くのことを仮想的に体験したうえで、実体験がついてくる。あとは不確定要素となる天候や、細かいところでは空気の霞具合、風の強さなどが異なるぐらいで、あらかじめ計画していた見るべき景色を肉眼で見て、空気を肌で感じ、香りを鼻孔で、風の声を聴覚で聴いた。仮想世界で組み立てていた世界自然遺産を、五感で実体験した。
 しかしそこに本当の感動があったのだろうか。
 深く青い小笠原の海の色は、想定していたよりも深い色に見えた。夕日の海原に影を写す沈没船は、思い描いた通り刻一刻と闇に飲み込まれてゆく。夜、長時間露光した撮像素子には、目論見どおり遥か250万光年先の星雲が写っていた。朝日を見るため、午前4時過ぎに走らせた原付で感じた南の島の朝の空気は、思ったよりも寒く感じされた。可視範囲に島影のない海原の昇陽は、これまで見慣れた沖縄や北海道の朝日とさほどの違いを感じることはなかった。そして楽しみにしていた南島の海蝕洞は、あまりにも想像通りだったうえ、撮影した写真は様々な媒体に掲載されている写真とまるで同じ構図、同じ色にしか写すことができなかった。
 間違いなく小笠原の自然は美しい。けれど、何かが物足りなかった。物足りないというよりも、すでに満たされてしまっていたと表したほうが感覚的に近いだろう。けれど既知の情報があまりにも多すぎたため、旅が追体験でしかなくなっていたのかもしれない。そしてそもそも、美しい風景ばかり思い浮かべていたことが、根源にあるように思える。
 美しいとは、他の島々や海沿いの風景と同じく、私目や心が美しいと感じているにすぎない。それは森を見ても、木を見ても、そして木の葉一枚を見ても、素人目には美しいとか自然豊かと感じる。しかしそれは小笠原本来の自然ではない。私が見てきた森や木々の多くと、そこに棲む動物や鳥類の少なからざる部分は、人がこの島に住むようになってから持ち込まれた、自然遺産としての小笠原には本来存在しない外来種だった。実はもともとこの島に息づいていた生物たちは、これら外来の動植物によって、駆逐される寸前にある。海洋島である小笠原に、何とか流れ着いたり、渡り鳥に運ばれてきた種子や生物の卵は、大洋という強固な障壁で隔離され、他の生物が容易に近づけない閉鎖的な環境の生物的な隙間にようやく根付き、中にはこの島々で生きるために独自に進化して、適応を高めていったのである。そこへ持ち込まれた得体のしれぬ外来種が天敵となったり、住処を奪うなどしたために、島でしか生きられない体となっていた生物たちは、もはや絶滅の瀬戸際にある。
 案内を聞けば、なるほどこの自然がいかに儚く貴重で、近世において無考慮に破壊された環境をこれ以上悪化させてはいけない、と理解することできる。この希少性と独自性が世界自然遺産たる理由なのだが、しかし私が美しいと夢想していた小笠原の心躍る何かに、世界自然遺産たる本来の価値を見出していたただろうか。
 修学旅行で初めて訪ねたときに感じた清水寺や知恩院の大きさ、白神の山道から見下ろした日本海の青やそこで聞いた津軽に吹き抜けるであろう風の音、北海道にはじめて渡った時の解放感、沖縄をはじめて訪ねた時、那覇の公設市場を満たしていた異邦感、竹富島ではじめて迎えた離島の夜の僻地感。小笠原でも海の青さや奇岩の数々、夜の波頭や昇陽の海原に、北の大地や都の寺院に通じる感動、南の島で感じたその土地独特の空気があったことは間違いない。けれど世界自然遺産として小笠原を正しく理解したうえで、心躍らせたかと自問すれば、否と答えざるを得ない。
 沖縄と違い、小笠原の人々は内地の人々とあまりにも同じ言葉を話し、同じ所作、同じ価値観で生きているように感じた。これには近代史が大きく関係していると思う。1968年の本土復帰以降の建物は、東京の郊外と同じ仕様の都営団地であったり、役所や学校の様式だったうえに、町の店々の雰囲気に至っては、奥多摩のそれらとあまりにも似ていた。強いて違いを挙げるとすれば、人口密度や谷あいを拓いた土地柄のため、密集してしまった都下の街並みにはない余裕、北海道の田舎町の家並みを想起させる広さを感じたことくらいだろうか。
 もし小笠原に南洋言葉なる方言が強く存在して、何か独特な沖縄のような街並み(古くは赤瓦、今日的なものとしては角付き住宅)があったとして、そこに小笠原的な空気感を覚えただろうか。うちなーやまとぐち、津軽弁、江戸弁、大阪弁、京都弁といった方言や、飛騨高山・飛騨古川の街並み、川越の土蔵通り、竹富島の赤瓦の家々といった街並みが醸し出す独自な空気は、文化遺産としての意味を旅人に訴える。歴史的な背景や、昨今のさまざまな事情によって、きれいに整えられた父島の街並みや、此処其処に残る戦跡が、島の歴史を文化遺産的に語りかけてくることで、旅人はこの島の歴史を端的にではあるが、明確に感じとることができる。
 知床や白神、小笠原諸島が独自の自然を持った大変貴重な場所であるということを、正しく網羅的かつ、わかりやすく明確に示す何かは存在しない。それらを成す、もしくはなしてきた自然こそが遺産そのものなのだから、湖にしても森にしても奇岩や島々にしても、部分的な現象の産物に過ぎない。これらを大きな系としてある程度把握したうえで、ある木々が森を形成するに至った環境や条件を知り、その森に暮らす生き物たちの姿を見、滅んだ生物の化石を手に取らなければ、自然遺産を「見た」ことにはならないのではないかと思えてしまう。そして「理解する」に至っては、専門家の領域である。とても素人の手におえるものではない。
 世界遺産の価値や、歴史的背景を知ることは大変重要だ。重要だからそれを目的にしなくてはならないという法はない。小笠原へ行こうと思った動機に立ち返ると、忙しい日常を離れて、なかなか行けない美しい島をこの目で見たい、というとても簡単なものだったはずだ。幸いなことに私はその時機を得た。その旅ですら、長らく務めた仕事の延長上で組み立て、評価していたことに気づく。美しい景色を見たい、広大な海や空の下で開放的な気分に浸りたい。簡単なことなのに、おかしな義務感が働いて旅や時間を台無しにしていた。旅にはお金がかかる、時間もかかる。一生に一度しか行けないかもしれない。だから旅を完遂させたい、失敗したくないという思いが、旅という非日常を日常の延長に引きずり込んでしまった。また浅薄な物見遊山の旅などまっぴらごめんだ、というおかしな自尊心が、感動を奪い去ってしまった。
 「無知」に罪はない。しかし「無礼」は恥ずべき所業である。「礼節をわきまえた無知」は恥ずべきことでも罪でもはない。物見遊山で何も学ばず、何も感動もしなければ、それは無価値の行為である。不見識なことを言っても、彼の地で正しく学び理解すれば、たとえその情報量が僅かであっても知識となる。また無価値の観光であっても、人が訪ねることそのものがその地を支える柱であることもまた現実である。旅人がみんな学術調査隊のようになって、名物を食わず酒も飲まず、土産物にも手を出さないとなれば、現代の社会ではその地は滅びてしまう。人の町が滅んでこそ、自然遺産が本来の姿に近づく、との考え方もあるけれど、自然遺産は観光資源としての性格も持ち合わせているし、その地を維持するためには何よりお金が必要なのだ。私のように半端な知識だけ詰め込んだだけで物知り顔をする、知識人かぶれ観光客よりも、良い意味で無知のまま彼の地を訪れる純粋な観光客のほうが、現地では歓迎されるかもしれない。
 小笠原に限らず、ここ数年は何かに急き立てられて旅をしていた。無欲は本当に難しいと思うけれど、少なくとも何かに縛られない、自分で自分を縛り付けない旅で、純粋に時間や空間を堪能できたなら、今私が抱えている心のわだかまりが晴れるような気がする。