狭山の基本

狭山丘陵はどこにある?

狭山丘陵ってどんなとこ?

狭山丘陵ってナニがある?

ってか、狭山丘陵ってなによ?



狭山丘陵ってどこにある?

狭山丘陵は埼玉県と東京都の県境に位置し、埼玉県の入間市と所沢市、東京都の瑞穂町、武蔵村山市、東大和市、東村山市におよぶ広い丘陵地帯です。わかりやすいランドマークは、多摩湖・狭山湖、西武ドーム、西武ゆうえんち、西武園競輪場、そして「トトロの森」です。
狭山丘陵はちょっと熱帯魚の形に似ています。口のあたりが瑞穂町、腹びれが武蔵村山市、尾びれのあたりが東村山市にあたります。
新宿からは西武拝島線で40分ほど。西武新宿駅から拝島線へ直通電車があります。都心からいちばん近い駅は「武蔵大和駅」です。西武新宿駅から萩山駅で乗り換えて2駅、5分です。


狭山丘陵ってどんなとこ?

狭山丘陵といえば「トトロの森」を思い浮かべるでしょう。でも本来の狭山丘陵は森だけではなくて、田畑や村落が「谷戸」と呼ばれる斜面からの谷筋やわずかな平地に点在し、丘陵の森からの里山の恵みを得て暮らすのどかな農村風景が広がるところでした。
現在は丘陵の中央部は大きな3つの貯水池が広がっています。貯水池を作るときに、村々の人々は谷戸の村を離れました。そして北側に当たる埼玉県側には通称「狭山湖」と呼ばれている「山口貯水池」ができ、南側に当たる東京都川には「多摩湖」と呼ばれている「村山貯水池」の上貯水池と下貯水池ができました。多摩湖は上貯水池と下貯水池の2つの貯水池の総称でもあります。 狭山丘陵はこの巨大な貯水池の水道用地なので、都会に近い丘陵でありながら、大規模な開発をほとんど免れてきました。しかし反面、村々に暮らした人が里山として管理しなくなったため、穏やかな森の面影は失われ、原生林のように木々が生い茂る森に変貌しました。そのため人々が里山の恵みを得ることは少なくなりましたが、森の奥には貴重な動植物が暮らす環境が守られているといいます。
この大きな貯水池を囲むような丘陵地帯のまわりは、おおむね北西、北東、南西、南東の4つのエリアに分かれます。
エリアA  − 農村風景が広がるエリア −
埼玉県入間市周辺は、大きな幹線道路(国道16号線)が南北に貫き、工場や大型の商業施設が軒を連ねる、郊外型の経済が活発なエリアです。しかし国道16号線の内側、幹線道路から少し離れた狭山丘陵の周辺は、高低差の少ない平地が広がり、茶畑が続く静かな農村地帯の趣を残しています。大きな道路を背にして狭山丘陵の方向を望めば、緑の野山が青空まで続く雄大な景色を楽しむことができます。
エリアB  − 開発や宅地化が進んだエリア −
埼玉県所沢市周辺は、開発がとても進んだエリアです。西武球場、西武遊園地、西武園ゴルフ場、西武園競輪場といったアミューズメント施設が集中し、そのすぐ近くまで宅地が広がっています。狭山丘陵の斜面は造成され宅地となり、航空写真でも緑地が少ないことがよくわかります。 しかしその反面、進みすぎた開発に危機感を抱く住民も多く、ナショナルトラスト運動が盛んです。「トトロの森XX号地」といった保全地域がたくさん作られ、これらの緑地を中心に、狭山の緑が大切にされています。
エリアC  − 景観を多く残すエリア −
東京都西多摩郡瑞穂町と東京都武蔵村山市の周辺は、比較的開発が穏やかで、昔ながらの景観を残しています。狭山丘陵を里山とし、谷戸地に溜池を作り、谷戸田と呼ばれる田を開墾して農業を営んでいた原風景が今でも残っています。また青梅街道沿いでは、一部ではありますが、江戸時代からの街道の面影を残す地域もあり、自然、民俗文化、歴史を楽しむことができるエリアです。 しかしこのあたりでも新青梅街道沿いは開発著しく、幹線道路沿いには大型の店舗や外食チェーンがたくさん並んでいます。
エリアD  − 宅地のなかに景観を残すエリア −
東京都東大和市と東京都東村山市の周辺は、一部で宅地化が進んでいますが、狭山の風景を多く残しているエリアです。多摩湖周辺には整備された森林公園が広がり、青梅街道の旧道や江戸時代から続く旧道沿いには、多くの歴史資産が遺されています。交通の便が良く整備されたエリアなので、狭山を気軽に楽しめるエリアです。


狭山丘陵ってナニがある?

狭山丘陵にはアミューズメント施設があり、周辺には大きな商業施設が立ち並んでいます。もちろん主な駅の周辺にはスーパーや飲食店が立ち並んでいますので、生活するうえでとても便利なエリアです。
狭山丘陵の魅力は、都会の近くの緑の森です。森の中には多様な生き物が暮らしています。多くの生き物をはぐくむ豊かな自然は、谷戸に湧く泉の水が潤しています。
そして大昔から人が暮らし、行き交っていた街道沿いには多くの寺社仏閣が軒を連ね、路傍には多数の石仏や地蔵尊が立ち並んでいます。


ってか、狭山丘陵ってなによ?

狭山丘陵は平野の中にポツンと残った島のような高台です。狭山丘陵の形成には、河川の浸食作用が大きくかかわっています。私見を交えながらになりますが、簡単にその流れを説明します。
狭山丘陵の成因については、多摩川などの河川が多摩・武蔵野の台地を侵食して、多摩丘陵などから切り離されて形成されたと説明されています。
しかし私はそれだけではなく、立川断層を形成した地盤の動きも関係しているのではないかと思っています。
多摩川などの浸食作用であれば、荒川水系と多摩川水系の分水嶺に当たる狭山丘陵は、両方の河川の浸食により、跡形もなく削られてしまうのではないかと思います。
私の私見ですが、岩盤の力で盛り上げられた部分が分水樋のような役割を果たして分水嶺となり、一部が浸食されて狭山丘陵になったのではないか、と思っています。

@関東平野の北東の岩盤と、南東の岩盤の間に力が加わる。これがやがて立川断層、名栗断層になる。

A北東の岩盤側が衝突の力に耐えきれなくなり、歪を吸収するように少し盛り上がって台地状になる。

B台地を挟み込むように河川が浸食してゆく。そして台地からも小川ができて、谷を形成してゆく。

Cやがて現在のような丘陵が形成される。

地盤同士の衝突は続いていて、その歪みは立川断層や名栗断層などのズレに吸収されている。


もしかして、歴史ロマン−武蔵村山市中藤

私が狭山丘陵について思っていることをひとつ。
狭山丘陵南麓には古い地名が残っています。武蔵村山市の「三ツ木」は、もともと「御調」「貢」を意味しており、税として納められる米などに関係する地名です。そして東大和市の「蔵敷」も倉敷、つまり荘園などで採れた米を取りまとめる場所を示す地名です。
武蔵村山市には「中藤(なかとう)」という町がありますが、「中藤」の名の明確な由来はわからないようです。鎌倉幕府を開いた源一派に加勢した、村山七党の”中の党”という勢力が拠点としていたから「中藤」、という話も聞きますが定かではないようです。
中藤にある武蔵村山市立第三小学校近隣の屋敷山遺跡では、宇宙人のような顔をした「遮光器土偶」の頭部が発見されています。これは主に東北地方で出土する例が多く、エスキモーやイヌイットといった北方系民族が、雪原で行動する際に強烈な光を遮る際に利用する、スリット状の遮光器付けた姿を摸しているものらしいです。
関東以南での出土はまれで、都内では唯一のものと記憶しています。そしてこれが出てて来たことから、この地の人は北方系の民族と何らかの交流があったのだろうと考えられています。
そして「中藤」という地名ですが、私は「中藤」の由来は「ワッカトウ」ではないか?と思っています。「ワッカトウ」をアイヌ語由来のコトバとした場合、「ワッカ」(稚内のワッカ)は「清い」、「トウ」(温根沼(オンネトウ)のトウ)は「池」「湖」を示すコトバに分解できます。つまり「ワッカトウ」=「中藤」は「清い池」という意味となり、谷戸に湧く湧水池などを示した言葉ではないかと考えています。事実、中藤は現在は番太池を有する谷戸周辺の地名で、昔から清い水に恵まれていたと思われます。
関東では珍しい遮光器土偶と、意味ありげな地名という2つの事象から発想したことにすぎませんが、ちょっとロマンを感じています。


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